Skip to main content

ひと手間で、ひと安心

 歯を削って詰め物を入れる治療をする時、歯を削る器具(ダイヤモンドの粒でコーティングされている)は、対象の歯だけでなく、すぐ隣の歯の面(隣接面)にも意図せず触れてしまうことがあります。この隣接面はフッ化物によるケアや歯ブラシの毛先も届きにくい場所です。ここに小さな傷や段差ができると、バイオフィルム(プラーク)が溜まりやすく、むし歯菌にとって絶好の足場になります。

 傷ついたことに気づかないまま年月が経ち、静かにむし歯が進行し、やがて歯の神経(歯髄)まで達してしまう。気づいたときには激しい痛みや顔の腫れに見舞われ、救急病院に駆け込むことになる。そんなシナリオは、十分にあり得る話です。

 この「治療中に隣の歯を傷つけてしまう」という問題について、歯科研究チームが調べたところ、決して低くない割合(研究によっては6〜7割ほど)で意図しない損傷が起きていたことが報告されています。

 治療する歯そのものに集中して慎重に扱われていても、すぐ隣に接している歯の面が、ほんのわずかな器具の動きの中で巻き込まれてしまうことがあるのです。歯と歯はぴったり接しているため、片方を削る作業は、もう片方に触れる危険と常に隣り合わせです。それは顕微鏡で見てやっと分かるくらいの傷かもしれません。それでもむし歯菌にとっては広大な一等地です。

 このリスクに対して、実は有効な対策があります。金属製のマトリックスバンドを隣の歯に巻きつけたり、ウェッジを歯と歯の間に挿入したりすることです。歯を削る処置の際、治療する歯と隣の歯のあいだにこうした保護装置が介在することで、器具が隣の歯の面に直接触れるのを防ぎ、健康な歯面を守ることができます。このひと手間によって、隣の歯の運命が変わってきます。

 ちょうどシートベルトやヘルメットのようなものです。シートベルトをしなくても、ヘルメットをかぶらなくても、たいていの日は何事もなく終わります。けれど、事故はいつ起こるか分かりません。そして、起きてしまってからでは取り返しがつかないのです。

 歯の治療でも、保護装置を使わなくても、多くの場合は何も起こらないかもしれません。しかし、「多くの場合は大丈夫」という言葉の裏には、「一定の確率で、健康な歯を傷つけてしまう」という現実があります。そして前述のように、その傷が何年も経ってから、激痛や顔の腫れという形で牙をむくなんてことも起こり得ます。

 治療の細部を患者さん側で確認するのは難しいですが、こういう地味だけれど有効な工夫が歯科医療には存在することを是非知っておいてほしいです。もし治療前に気になるなら、このコラム記事を見せて、「隣の歯を保護するような器具のことを知りました」と、歯科医師やスタッフと気軽に会話してみてはいかがでしょうか。多くの歯科医院では当たり前のように行われている配慮ですが、患者さん側がその存在を知っているだけで、治療に対する納得感や信頼感、健康な歯を守るという共通認識が強化されると思います。

 そして何より、すでに治療した歯の「隣」も、実はむし歯の高いリスクを抱えているということを忘れないでくださいね。たとえこのような保護装置で守られて傷がつかなくても、その健康だった隣の歯にも、もともとむし歯だった歯からうつった悪玉菌がすでに付着している可能性があります。食べ物の摂り方、フッ化物の使用、唾液の量や質といった要因もあわせてリスク評価し 、むし歯になりやすいハイリスクな環境を改善しましょう。


画像説明

ヘルメットのように歯にも保護装置を付けるひと手間を。
※本イラストは ChatGPT を用いて生成したものです。


参考文献


  • Qvist V, Johannessen L, Bruun M. Progression of approximal caries in relation to iatrogenic preparation damage. J Dent Res. 1992 Jul;71(7):1370-3.

  • Lussi A, Gygax M. Iatrogenic damage to adjacent teeth during classical approximal box preparation. J Dent. 1998 Jul-Aug;26(5-6):435-41.


参考ページ(製品情報)



筆者プロフィール

Makiko NISHI

西 真紀子
NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP)理事長
(旧称 「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」)

1996年 大阪大学歯学部卒業
     大阪大学歯学部歯科保存学講座入局
2000年 スウェーデン王立マルメ大学歯学部カリオロジー講座客員研究員
2001年 山形県酒田市 日吉歯科診療所勤務
2007年 アイルランド国立コーク大学大学院修士課程修了
Master of Dental Public Health (MDPH)取得
2010年 NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP)理事長
(旧称 「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」)
2018年 同大学院博士課程修了 
   Doctor of Philosophy(PhD)取得

X Instagram