
正しさでは届かない。
予防歯科は問いの中で育つ
このは歯科:幡野先生インタビュー
このは歯科・幡野先生インタビュー
【CG】
予防歯科という考え方は広がってきました。けれど、治療が終わった後も通い続ける価値まで患者さんに伝えられている歯科医院は、まだ多くありません。
今回は、日吉歯科診療所で熊谷崇先生のもと研鑽を積み、開業9年目を迎える「このは歯科」の幡野先生にお話を伺いました。
実は開業前、東京で物件を見ながら将来の構想について語り合ったことがあります。当時から幡野先生には、競争や規模の拡大を前面に出すタイプにはない、静かな誠実さがありました。
日吉歯科診療所、そしてその系譜に連なる医院の多くは、地域の住宅地に根ざした診療所です。そうした中で幡野先生が選ばれたのは、静岡市中心部のオフィス街にあるビルの5階という対照的な環境でした。
地域密着型とは異なる都市型の立地で、日吉で培われた診療文化をどのように根づかせていくのか。それは静かな新たな試みだったように思います。
現在、このは歯科に流れる穏やかな診療の空気には、その試みの積み重ねと、幡野先生のお人柄、そして日吉で学ばれた診療哲学が自然なかたちで息づいているように感じます。
今回は、そんな幡野先生に、開業から9年を経た今の診療スタンスについて伺いました。
歯を治すことから、健康観を育む「伴走者」へ
【CG】
かつて東京で将来を案じていた頃が懐かしく思えるほど、素晴らしい医院を築かれましたね。開業9年目を迎え、現在どのような歯科医院を目指して診療されていますか。
【幡野先生】
患者さんが「あ〜、ここに来て本当に良かった」と心が温かくなる。そんな光景を日常にする医院を目指しています。単に「痛みが消えた」「詰め物が入った」という機能的な回復だけではなく、その先にある「自分の生活を大切にしている」という実感を持ち帰っていただきたいのです。私たちは、患者さんの長い人生を共に歩む伴走者のような存在でありたいと感じています。
【CG】
治療の先にある「人生」に寄り添うということですね。開業当初と比べて、先生ご自身の考え方に変化はありましたか?
【幡野先生】
開業当初は、歯の生存率や高度な治療連携など、技術や成果に意識が向いていました。しかし現実はもっと複雑でした。価値観は人それぞれで、医学的に望ましいことを伝えるだけでは届かないこともある。試行錯誤の中で辿り着いたのは、医療とはその人の歩幅に合わせて寄り添うことだということです。私たちの仕事は、歯を治すことから、健康との向き合い方を共に育むことへと少しずつ重心が移っていきました。
正しさだけでは届かない
―患者理解から始まる予防歯科
【CG】
日吉歯科のスタイルを、静岡市のオフィス街のビル5階という環境でゼロから立ち上げるのは、相当なご苦労があったかと思います。当初、どのような課題に直面されましたか。
【幡野先生】
「予防の重要性」という私たちにとっての当たり前が、なかなか地域の皆さんの心に届かなかったことです。こちらは良かれと思って伝えているつもりでも、その思いがうまく届かず、もどかしさを感じることがありました。振り返れば、自分たちが当然だと思っていた価値観が、地域の皆さんと十分共有されていなかったのだと思います。その経験を通じて、何を伝えるかだけでなく、どう伝えるか、どのように寄り添うかを大切に考えるようになりました。
たとえば、「唾液でがんのリスクが分かるようになってきている」と話すと、「がんまで歯医者が扱うって言うと、怪しさを感じる」と、私たちの本意とは異なって受け取られることもある。
また周産期の方に、「親御さんが健康であるほど、お子さんも守りやすい。そういう意味ではマイナス1歳からの予防歯科という考えもある」とお伝えすると、「ここは普通の人が通う歯科医院ではないのでは」と言われることもありました。
伝えたいことと、伝わることが異なる。そんな難しさをなん度も経験しました。
【CG】
理想としていた歯科医療と、地域医療の現実。そのギャップをどのように受け止めていかれたのでしょうか。
【幡野先生】
理想は、誰もがメインテナンスを当たり前の習慣として捉える地域をつくることでした。ありがたいことに、患者さんからのご紹介で来院される方は多いのですが、それでも継続的なメインテナンスを習慣として根づかせることの難しさを痛感しています。
また、専門医との理想的な連携も、地域医療の現場では現実的には簡単ではないことを実感しています。
【CG】
その大きな壁を、今はどのように乗り越えようとされていますか?
【幡野先生】
正直なところ、まだ乗り越えられたとは言えません。今も日々、目の前の患者さんと向き合いながら、その答えを探し続けています。
その中で何より大切にしているのは、患者さんのこれまでの経験や想いを丁寧に聴くことです。歯科に対してどんな思いがあり、これまでどんな体験をされ、そのときどう感じてこられたのか。時には、「私たちに何を期待されていますか」と率直に伺うこともあります。
表面的な症状だけではなく、その奥にある願いや背景に触れようとすること。患者さんを導くでも迎合するでもなく、目線を合わせ、対話の中で関わり続けることを大切にしています。
私たちはそれを、ひとつの“姿勢”として大切にしています。それが今、このは歯科医院が大切に守りたい診療の軸です。
学んだ型を、自分の臨床に変えていく――。
泥臭い徹底が生む信頼
【CG】
このは歯科さんの待合室に座っていると、日吉歯科と同じ空気感を感じます。しかし、あの「空気」は内装だけを真似ても出せません。日吉での5年間の学びを、自分の現場で再現する際、苦労された点はありますか。
【幡野先生】
熊谷先生をはじめ、日吉歯科に関わる全ての方々から、医療従事者として、そして社会人として大切な軸を勉強させていただきました。30年、40年と培ったきたその歴史の上に、私たちは勉強させていただく分けですが、開業して初めてその歴史の重たさと深さを実感しました。
長い年月をかけて地域との信頼関係を育んできた環境で実践する医療と、信頼関係がゼロの状態から始まる新規開業とでは、その意味合いはまったく違うことも痛感しました。
患者さんの理解を深めるために必要だと思っていたステップが、時に負担や足かせになってしまうこともある。さらに、私自身は医学的に良いことと思って尽くしていても、思うように歯を守れない現実にも向き合ってきました。
そうした経験を通して、何が本当に患者さんの歯を守ることにつながるのか、あるいは“守る医療”とは何かという問いに向き合うようになり、今も考え続けています。
【CG】
その問いに向き合う中で、幡野先生ご自身が「予防とは何か」を見直した部分はありますか?
【幡野先生】
開業してしばらくは、チェックリストを一つひとつ埋めていくような、医療者主体の診療となっていました。しかし、それはあくまで「手段」であることに気がつく事ができました。そこからは、そのベクトルを患者さん主体へと転換するよう努めています。
立ち返ったのは「傾聴」でした。患者さんの満足や納得は、真のニーズを理解してこそ生まれる。だから話を聴き、それをSOAPIEとして記録し、考察を深める。特別な工夫ではなく、臨床の基本を泥臭く丁寧にやり直すことだと思っています。
患者さんの力を信じ、世代を超えて寄り添う
【CG】
お話を伺っていると、医療としての正しさと、人としてどう関わるか、その両立をとても大切にされているように感じます。
【幡野先生】
私は、「医療人・社会人・個人」としてのバランスを意識することが大切だと思っています。予防歯科に関わる人には、患者さんに深く寄り添おうとする姿勢の強い人が多い。ただ、その関わりが一方的な“施し”になってしまうと、患者さんが自ら健康を守ろうとする力や主体的に選ぶ機会を、奪ってしまうことにもなりかねません。
患者さんの選択を本当に尊重するなら、その結果として生じる不便さや、ときに望ましくない結果も含めて、患者さん自身の選択として受け止められることを認める必要があると思っています。
私たちが治してあげるのではなく、患者さん自身が「自分の健康を自分で守る」という意志を持てるよう、横で支える。その方の中に「自分で守ろうとする意志」が芽生える瞬間に立ち会えることは、臨床に携わる大きな喜びの一つです。
ただ、それがすべての患者さんに届くわけではないという現実も、同時に受け止めています。
それでもなお、目の前の一人ひとりと向き合い続けることが、私たちの仕事だと考えています。
【CG】
患者さんとの関係性を育むうえで、診療時間や環境面で工夫されていることはありますか。
【幡野先生】
患者さんと落ち着いて向き合い、対話できる時間は意識して確保するようにしています。クリーニングだけで終わるのではなく、近況をうかがったり、変化を一緒に確認したり、不安があればその場で話し合う。そうした時間の積み重ねが信頼関係につながり、結果として予防医療を支える基盤になると感じています。
【CG】
そうした「ゆとり」の中から生まれた、印象に残っているエピソードがあれば教えてください。
【幡野先生】
開業当初から通ってくださっている、ある患者さんの事が印象に残っています。最初はご本人がお一人で定期的にメインテナンスに通われていましたが、しばらくして彼女さんを連れてきてくださいました。やがてお二人は結婚をされ、披露宴の際には歯ブラシを配りたいとご相談をいただくこともありました。人生の晴れ舞台に、歯ブラシを配っていただけるなんてと、スタッフ一同で感動しました。
その後も、親御さんだけでなく、静岡市から1時間ほどかかる藤枝から、当時95歳のお祖父様まで通ってくださるようになりました。さらに先日はお子さんも生まれ、生後6か月から通院されています。
世代を超えて、一つの家族との関わりが続いていく。そうした時間の積み重ねの中に、予防歯科の大きな価値があると感じています。私たちが目指しているのも、単に歯を診ることではなく、こうした関係性を丁寧に育んでいく医療なのだと思います。
臨床家は臨床で語る。人として伝えるということ
【CG】
院内だけでなく、外に向けた講話活動も積極的にされていますね。そのきっかけや意義について教えてください。
【幡野先生】
歯科医院のユニットで待っているだけでは、必要な情報が届きにくい方もいると感じたことがきっかけです。とはいえ、私自身を振り返っても、歯科医院が主催する「健康講座」は少し敷居が高く感じますし、わざわざ参加しようとは思わないかもしれません(笑)。
それなら、自分が普段足を運ぶようなカフェやサークルなど、もっとリラックスできる場所にこちらから出向いて、世間話の延長で大切なことを伝えられたらいい・・・そう考えるようになりました。
場所が変わると、関わり方も変わります。歯科医院の中では、どうしても私たちは伝える側になりやすいのですが、一歩外に出れば私も社会の一員の一人です。場によっては教える側・教わる側が入れ替わることもある。そのフラットな関係性がとても面白いと感じています。
歯科医師だから特別なのではなく、専門性を持ちながらも、人と人として情報を交わし、学び合う。その関係性の中でこそ、伝わることがあると考えています。
【CG】
実際に地域に出てみて、手応えや変化は感じられますか。
【幡野先生】
以前はワークショップも企画していましたが、今は少し考えが変わりました。一過性の学びより、日常の会話の中で健康が話題になり、自発的な受診につながることに可能性を感じています。
熊谷先生の「臨床家は臨床で伝えていく」という言葉の意味を、今あらためて感じています。
外での活動も大切ですが、やはり日々の診療の積み重ねの中でこそ、人の行動や意識は少しずつ変わっていくのだと思います。
磨き続けるのは自分自身。急がば回れ、次世代につなぐ
【CG】
最後になりますが、これからの展望、そして次世代の方々へのメッセージをお願いします。
【幡野先生】
これからも、「健康を育むこと」を軸にしていきたいと思っています。ただ、そのかたちは患者さんごとに違っていい。全部残したい人もいれば、そうでない人もいる。それぞれの価値観を尊重しながら、困ったとき、あるいは困らないようにしたいときに、いつでも頼っていただける存在でありたいと思っています。
派手な成功ではなく、じっくり、丁寧に、コツコツと積み重ねること。その結果として、健康を大切にしたいと願う方にとって、信頼して通っていただける場所であり続けることが目標です。
社会全体を変えるようなことは語れません。ただ、熊谷先生から教わった「変えられるのは自分のクリニックから」という言葉の通り、まず自分自身を磨き続けることが出発点だと思っています。
だから学びと研鑽は止めたくない。歯科医師としての仕事を終えるとき、関わった方々が「ああ、よかった」と思ってくだされば、それだけで十分ありがたいことだと思っています。そうした小さな積み重ねが、次につながっていくのではないでしょうか。
特に歯科学生や衛生士学校の皆さんに伝えたいのは、最初の数年が、その後の職業人としての土台をつくるということです。だから最初の一歩は慎重に選んでほしい。タイムパフォーマンスが重視される時代ですが、あえて言うなら「急がば回れ」です。遠回りに見える経験の中にこそ、自分を磨く機会があることも少なくありません。
そして雇用とは、単なる人手の確保ではなく、人を育てる責任を引き受けることでもあると思っています。当院もそうした意識でスタッフと向き合ってきました。医療が人と人との営みであることを大切にしながら、ともに学び合える仲間が増えていくことを願っています。
編集後記
熊谷先生は、「医療は自分で気づき続けるものだ」と語られます。
それは、歯科医院という場もまた、問いながら育まれていくものだということなのかもしれません。幡野先生の臨床にも、そうした姿勢が、日々の実践として静かに息づいているように感じました。
このインタビューを通して見えてきたのは、完成された医療ではなく、問いながら育っていく医療の姿でした。
正しさを押しつけるのでなく、ともに考え関わり続ける。その積み重ねが、やがて家族や世代へ広がっていく。幡野先生の診療には、そんな時間の広がりが感じられました。