第8話/「銀座・日本橋・浅草から始まる近代歯科第1世代の記憶」(日本橋/浅草・散歩編②)
アメリカから歯科資器材を初めて直輸入した男・清水卯三郎
前回「日本橋/浅草散歩編①」の最後に登場してもらった、貿易商「瑞穂屋」の主人・清水卯三郎について、今回は少し詳しく触れていきたいと思います。清水卯三郎が明治時代に行った貿易商としての事績は多彩ですが、とりわけ歯科医学に関連する諸事業は、現在も日本の初期歯科医学史上に燦然と輝いています。
清水卯三郎という人物は実際、かなりの傑物です。一般的な意味での「歴史上の有名人」とはいえないかもしれませんが、実はNHK大河ドラマの主人公に取り上げられても十分通用するような、強烈な個性と多彩なエピソード、何よりも近代初期の日本人貿易商としては並外れた(日本人離れした)実績の持ち主です。
本欄では主に「1871/明治9年(1870/明治8年説もあり)に、日本人として初めて、アメリカ・ホワイト社(現SSホワイト社)の歯科資器材を直輸入した貿易商」で、歯科関係の書籍・雑誌の刊行や輸入なども盛んに行い、明治時代前半期の日本における歯科界の基盤整備に多大な貢献をした人――という文脈で紹介しています。
しかし、その実像は、歯科界だけではとても収まらないスケール感に満ちています。例えば、清水卯三郎と浅からぬ交流や接点のあったことが、具体的なエピソードとともに伝えられている人物の例を上げると、渋沢栄一(日本資本主義の父)、福沢諭吉(慶應義塾の創設者)、勝海舟(幕末期の幕府要人)、大久保利通および西郷隆盛(明治維新をけん引した薩摩藩の若き代表コンビ)、ナポレオン3世(フランス皇帝)、プチャーチン(ロシア海軍軍人、日露和親条約締結時のロシア代表)など、過去に大河ドラマの主人公になった人たちや世界史的な大物の名前までもがたちどころに出てきます。
そんな清水卯三郎が貿易商としての才能を、より大きく開花させるキッカケとなったのは、1867(慶応3)年(4月1日~10月31日)に開催された「バリ万国博覧会」に、幕府の援助のもと、唯一の日本人商人として工芸品などを出展した経験にあります。
卯三郎はさらに、万博会場に江戸風のヒノキ造りの水茶屋を設営し、帯同した3人の芸者を使って入場者に日本の茶や菓子を供して大評判を博すなど、稀代のアイデアマンぶりを遺憾なく発揮。パリ万博を大いに盛り上げた功績に対し、時のフランス皇帝ナポレオン3世から銀メダルを授与されたりもしています。
また、渡仏する際には、徳川昭武(最後の将軍・徳川慶喜の弟、最後の水戸藩主)を代表とする幕府の訪欧使節団(主目的はパリ万博への参加)に随行する形をとり、得意の英語を駆使して使節団の通訳としても活躍したことなどが伝わっています。卯三郎は若い頃からオランダ語を勉強していたものの、横浜外国人居留地では英語しか通用しないことに気づき、英語を熱心に学ぶようになったことが奏功しました。さらに横浜では、欧米の貿易商たちを相手に実践英語を磨いたのですから、かなり流暢だったのではないでしょうか。
そして、このときの幕府訪欧使節団に、会計役として参加していたのが、今年発行された新1万円札に肖像が刷り込まれている、あの渋沢栄一です。渋沢栄一は当初、パリ万博終了後もフランスにとどまり、徳川昭武のフランス留学に数年間付き添う予定でした。しかし、故国における徳川慶喜の政権返上(1867/慶応3年11月9日の大政奉還)のニュースが届いたことから、渋沢は使節団ともども1868(明治元)年12月に、急きょ帰国することになります。
渋沢栄一は2年間にも満たないこのフランス滞在の間に、欧州の経済システムや銀行システムなど資本主義の根幹を学び、帰国後、資本主義の構築に必要なあらゆる社会システムの形成、500社以上の企業の創設、500件以上の福祉事業の立ち上げに関わるなど、獅子奮迅の大活躍。「日本資本主義の父」と称えられるようになります。
一方の清水卯三郎は、パリ万博が終了した時点で幕府使節団とは別れ、イギリス経由でアメリカ大陸に渡っています。卯三郎がパリ万博に参加できたのは、幕府の公募に応じ、個人(商人)の資格で参加が認められたからです。武士たちが主体の訪欧使節団とは一線を画す立場だったため、そんな行動も可能だったのでしょう。
何はともあれ、この帰国の途次に、清水卯三郎は産業革命によって当時世界一の工業国に成長していたイギリス、世界一の歯科医学先進国の道を歩み始めていたアメリカを、自らの目と足で体験。渋沢栄一ともまた違う観点から「世界の趨勢」を知ることになります。
清水卯三郎の浅草・瑞穂屋付近の墨田川。外国からの輸入品もこのあたりから陸揚げされたのだろうか
そして、フランスで別れた幕府使節団より一足早く、元号が慶応から明治に変わる1868年の半ばに帰国した清水卯三郎は、外国と直に取引するための貿易商「瑞穂屋」を、改めて設立するのです。
世界一の歯科医学先進国・アメリカでの見聞を携え浅草に進出
当時世界一の水準を誇っていたアメリカの歯科医学および歯科治療技術を、本場・アメリカで実地に学んだ最初の日本人は、前回触れたように、東京歯科大学のルーツ「高山歯科医学院」を1890(明治23)年に創設することになる高山紀齋でした。
高山紀齋のアメリカ留学の期間は1872(明治5)年~1878(明治11)年までの足掛け7年間。清水卯三郎のアメリカ滞在は1868年の数か月間に過ぎません。しかし、世界一の水準を構築しつつあった本場アメリカの歯科医学とその周辺に醸成されつつあった医療産業的な萌芽(歯科資器材の先進的な開発などの業界形成)について、卯三郎が高山紀齋より4年ほど前の段階で、既に冷静な貿易商の目をもって将来性を感じ取っていたのは確かでしょう。
清水卯三郎が渡米した1868年という時期は、世界初の歯科医学専門学校「ボルチモア歯科医学校」(現メリーランド大学歯学部)が開校した1840年からは28年後。世界初の大学の歯科医学部が「ハーバード大学」に誕生した1867年の翌年にあたります。
半面、当時のアメリカは南北戦争(1861年4月~1865年4月)の終戦からわずか3年後。新時代に向けた変革の時を迎えていたのと同時に、世の中全体には荒廃の気配が漂っていました。
奇しくもこの様相は、同時代の日本を想起させます。日本は幕末の激動期の総仕上げともいうべき、旧幕府軍と官軍による、やはり全国を二分するような内乱「戊辰戦争」が、清水卯三郎の帰国した1868年から1869年にかけて勃発しています。
そうした物情騒然たる雰囲気の中、アメリカでは近代歯科医学の芽が脈々と枝葉を広げ始めてもいたわけです。その相反する雰囲気を体感した清水卯三郎は、前述のように戊辰戦争の最中の日本に帰国し、すぐに貿易商社「瑞穂屋」を創業しました。その際の卯三郎の胸中には、恐らくアメリカで見聞した、南北戦争直後の退廃と歯科医学も含めた近代医学の急速な発展期などが同時に訪れる「クラッシュ&ビルド」と同様の現象が、戊辰戦争後の日本においても起こるという予測があったのではないでしょうか。
そのあたりの「機を見るに敏なアンテナ」の鋭さと、それに即応する旺盛な行動力は、幕末期の内乱で攘夷思想が蔓延していた日本の開港地(横浜、神戸、新潟、函館、長崎など)に、自らの生命の危険をもかえりみず、万里の波濤を越え、当たり前のように進出してきた欧米の冒険的な商人たちとも共通する逞しさを感じます。
さて、少し話を進め過ぎました。
以上のような観点から今回訪ねたのは、米ホワイト社の歯科資器材を初めて直輸入する1871(あるいは1870)年より3年前(あるいは2年前)に、欧米滞在を終えたばかりの卯三郎が「瑞穂屋」を立ち上げた旧浅草森田町かいわい(現在の台東区蔵前2丁目周辺)と、1877(明治10)年に「パリ万博」を模したような、内務省主催の「内国勧業博覧会」が開催された上野公園です(清水卯三郎は日本版万博を日本でも開催すべきと、1872/明治5年に内務省に提案。内国勧業博覧会の開催に影響を与えたともいわれています)。
浅草の中心はなんといっても浅草寺。今回の散歩時には、奇跡的に外国人観光客もいかった
写真にあるように、蔵前2丁目は隅田川の沿岸です。浅草寺のある浅草の中心部や日本橋の中心部との中間点からは、少しだけ浅草寄りといった位置関係にあります。蔵前という地名は、天領などから運び込まれた幕府の米を保管する「御蔵」が江戸時代に置かれていたエリアであったことから来ています。したがって周辺には米問屋がたくさん建ち並び、大層な賑わいだったそうです。
幕府米蔵のあったと思われる場所の一つ。清水卯三郎が存命中の1897(明治30)年にはここに浅草火力発電所が建設された(現東京電力蔵前変電所)
本欄第1回目の「酒田市散歩」編では、出羽国(現山形県・秋田県)の天領で栽培された幕府の年貢米(御蔵米)が、酒田湊(現酒田港)から北前船に載せられ、江戸に運ばれたと書きました。それらの年貢米の多くは、長い航海の末に、この江戸・蔵前に建ち並ぶ幕府の御蔵に運び込まれていたのです。
清水卯三郎の瑞穂屋はそんな土地柄を持つ蔵前で出発した訳ですが、初期の瑞穂屋は洋書の輸入販売や翻訳本の販売とともに、卯三郎がフランスから持ち帰った「本邦初の活版印刷機や石版印刷機」などを駆使した出版事業が、大きな注目を集めました。
清水卯三郎の歯科医学関連の出版事業は、浅草進出の翌年に日本橋本町3丁目(前回登場した日本初の女性歯科医師・高橋コウの父親、口中医の髙橋富士松が経営していた診療所の隣接地)に移転した後、さらに本格化します。
予防も説いた歯科衛生啓蒙書と国産歯科資器材の製造工場
前々回に少し触れたように、小幡英之助や高山紀齋を皮切りに、医術開業試験に合格したり外国の歯科医学専門学校を卒業した後、明治時代前半期に国(内務省)の医籍・歯科医籍に登録された西洋歯科の医師たちは、先駆者として後進の育成に励むとともに、西洋歯科に基づく「歯科衛生に関する大衆の啓蒙」にも、非常に力を入れていました。
啓蒙の中には当然、歯磨きの重要性を始めとする「歯周病や虫歯を避けるための各種注意点」なども列挙されていました。今日の「予防歯科」とは観点の違う部分もあるでしょうが、初期の歯科衛生啓蒙書は、「予防の大切さ」を大衆に説く教科書としての役割も果たしていたといえるのかもしれません。
それは当時出版された、歯科医師たちの筆になる啓蒙的歯科衛生書の数々を見れば分かります。国民に口腔衛生の大切さを知ってもらうのと同時に、西洋歯科の優れた「効果」を知ってもらい、より多くの国民に患者になってもらうための基盤整備としても、啓蒙書の効果が重要視されたのでしょう。その最初の事例は前々回ご紹介した、1881(明治14)年出版の『固齢草-名・歯牙養生譚』(伊澤道盛/小幡英之助の直弟子)です。
筆者はその際、清水卯三郎の瑞穂屋が版元と書きましたが、改めて調べてみると、瑞穂屋が主な販売所ではあったものの、版元がどこなのかは確認がとれませんでしたので、ここに訂正いたします。
また、神奈川県歯科医師会「歯の博物館」館長・大野粛英著『歯』(法政大学出版局)によれば、『固齢草-名・歯牙養生譚』(伊澤道盛著)の2年前(1879/明治12年)には、翻訳本『歯乃養生法』(J・W・ホワイト)が出版されています。さらに高山紀齋は『固齢草-名・歯牙養生譚』と同年の1881年に出版した『保歯新論』を皮切りに、『歯の養生』『衛生保歯問答』『通俗歯の養生』などを、1890(明治23)年までに立て続けに出版していることが注目されます。
「高山歯科医学院」設立と同年の1890年、浅草に日本一の高さ(52m)の遊戯施設「凌雲閣」(通称:十二階)が竣工。写真左の白いビル「浅草ビューホテル」手前側3軒目が跡地
1890年は前述の通り、高山紀齋が東京歯科大学のルーツである「高山歯科医学院」を創設した年です。そして『東京歯科大学百年誌』に掲載されている年表などを見ても、高山紀齋著のいわゆる歯科衛生啓蒙書は、その後、出版されていないようです。
小幡英之助と並ぶ日本人歯科医師のパイオニアである高山紀齋にとって、高山歯科医学院の創設後の人生航路は、大衆への啓蒙の段階を過ぎ、後進を育成する教育者としての段階へと、シフトチェンジされていったということなのかもしれません。
ペリー提督ひきいる黒船の来航と同年、1853(嘉永6)年に開園した日本最古の遊園地「浅草花やしき」。1868(明治元)年に清水卯三郎が浅草に瑞穂屋を立ち上げた時には既にあった
さて、清水卯三郎の瑞穂屋はその間も、前出の歯科衛生啓蒙書の取り扱いはもちろん、医術開業試験の受験者向け「歯科医術開業試験問題集」や、専門書籍「歯科全書」、歯科医学の情報誌ともいうべき「歯科雑誌」などを次々に発行。さらには歯科資器材の輸入に飽き足らず、日本初の歯科資器材の製造工場まで設立します。
清水卯三郎の伝記『清水卯三郎 文明開化の多彩な先駆者』(今井博昭/さきたま出版会)には、『日本歯科業界史・器械編』(日本歯科企業協議会編)に掲載された、清水卯三郎の歯科資器材製造工場の様子が引用されています。
語り手は、清水卯三郎の製造工場で10年間ほど修業した経験を持つ、歯科医療向け機器の製造販売大手・株式会社吉田製作所の創業者・山中卯八です。それによれば、工場では「足踏み式エンジンや治療椅子などの大物を作り、設備のいらない小物類は下請けに作らせていた」とのこと。
このように、清水卯三郎が日本の歯科界にもたらした影響力の大きさは、昭和の戦後に至るまで、歯科医学界や歯科専用資器材を扱う業界に脈々と語り伝えられてきました。例えばそれは、埼玉県立文書館が2018(平成30)年7月24日から10月21日まで開催した「文明開化の先駆者 清水卯三郎」展に、卯三郎が出版した数多くの歯科医学書などとともに展示された、卯三郎の歯科医学への貢献に対する「顕彰状(表彰状)」の文面からも明らかです。
顕彰状が発行された日付は1950(昭和25)年5月7日。顕彰者は「歯科商工功労者顕彰会」という名称の団体(名誉会長=日本歯科医師会初代会長・佐藤運雄、会長=歯科時報社主幹・中安順次郎の署名入り)で、文面を要約するとおよそ以下のようになります。
[明治初年のわが国の歯科医学がまだ出発したばかりの時代に、アメリカから歯科治療用器材を輸入販売しただけでなく、工場を建設して歯科器械の製作を始めるなど、日本の歯科産業の基盤を作り、歯科界に多大な貢献をされたことを称え、表彰いたします]
日本初の女性歯科医師・高橋コウの父・富士松とその仲間の要請に応じ、米ホワイト社の歯科資器材を初めて直輸入した1871(明治9)年から数えて79年目(初輸入は1870年とする説もあり、その時から数えれば丸80年目)、清水卯三郎が死去した1910(明治43)年から数えても丸40年の節目に示された、まさに業界を挙げた、清水卯三郎に対する「改めての感謝」の表れといえるのではないでしょうか。(以下、次号に続きます/文中敬称略)
筆者プロフィール
未知草ニハチロー(股旅散歩家)
日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。