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第4話/「横浜外国人居留地跡と周辺・散歩」編㊥

幕末・明治初期に来日した10名前後の外国人歯科医たち

 前回は幕末から明治時代初期に来日し、横浜で開業した3人のアメリカ人歯科医師(イーストレーキ、エリオット、パーキンス)の「顕彰碑」に書かれている事績を中心に、日本の「西洋近代歯科発祥の地/旧横浜外国人居留地跡(現・横浜市中区山下町)」とその周辺を、往時を想像しながら現代の街並みを歩く「時空散歩」してみました。

 今回と次回は、その続編です。

 前回書いたように、「横浜外国人居留地跡と周辺・散歩」編は当初、2回に分けてお届けする予定でした。でも、実際に歩いてみると、駆け足で書いたとしても、材料が豊富すぎてとても2回では収まらないことが判明したため、予定を変更する次第です。

 そして2度目の散歩に出かける前に、まずは幾つかの補足事項および訂正事項から書かせていただきます。

 一つ目は、前回、イーストレーキ(イーストレークとも)が初めて来日したのは1860(万延元)年ないし1865(慶応元)年とする説をご紹介しました。この点について、改めて各種資料を精査したところ、実際は1865年が正しく、同年に横浜外国人居留地108番で日本初の歯科医院を開業したようです(1860年初来日説も、実はまだ根強く流布しています)。

 イーストレーキは生涯に3度来日しており、2度目は1868(慶応4年/明治元年)年、3度目は1881(明治14)年とする説も、前回ご紹介しました。しかし、実際に来日したのは2度目が1870年頃(横浜外国人居留地11番で開業)であり、3度目の来日が1881年(1876年とする説もあり/横浜外国人居留地160番で開業)というのが、現在、最も有力な説のようですので補足しておきます(とはいえ、このあたりも、実はまだ情報が錯綜しています)。

 それから、イーストレーキは死後にオハイオ歯科大学からD.D.Sの学位を授与されたとする説もご紹介しました。これは完全な間違いで、実際には、来日と離日(上海・香港などで開業)を繰り返している間の1873年に、オハイオ歯科大学でD.D.Sの学位を取得していることが分かりました。イーストレーキが歯科医師としての大きな敬意を、横浜や上海などで受けた後も、最先端の歯科医学を引き続き追究していたことが、この履歴からも分かるのではないでしょうか。

 いずれにせよ、イーストレーキは3度目の来日後は離日することなく、1884(明治17)年に東京・麹町に転居して自宅に診療所を開設。1887(明治20)年に築地病院で死去しました。

 まさに、西洋歯科医学を日本に持ち込んだパイオニアとして、波乱万丈の生涯を送り、最期は日本の地に骨を埋めたのです。

 ――以上、ここに改めて、補足と訂正をさせていただきます。


 さて今回、2度目の旧横浜外国人居留地跡(現・横浜市中区山下町)で「近・現代歯科」の歴史散歩に出かけるにあたり、直前に素晴らしい資料と出会うことができました。

 それは特定非営利活動法人「日本顎咬合学会」が発行する国外向け論文誌「JICD/Journal of Interdisciplinary Clinical Dentistry(2021年発行/VOL.52)」に掲載された『明治期における歯科治療の変遷』と題する論文です。

 この論文の著者・大野粛英氏は、前回ご紹介した「我国西洋歯科医学発祥の地」碑(イーストレーキの顕彰碑)と「西洋歯科医学勉学の地」碑(エリオット、パーキンスの顕彰碑)が玄関先に設置されている「神奈川県歯科医師会館」の7Fにある《歯の博物館》の館長で、日本歯科大学生命歯学部および昭和大学歯学部の客員教授もそれぞれ務めておられます。

 まず目をみはるのは、この論文にはイーストレーキ、エリオット、パーキンスの3人を始め、幕末から明治時代初期に来日した計8名の西洋歯科医師(ほとんどがアメリカ人)の名前が記されていることです。具体的には1865年に初来日したイーストレーキ(W.Cイーストレーキ)を皮切りに、1866年来日のバーリンガム(J.S.バーリンガム)とレスノー(J.R.レスノー)、1867年来日のウィン、1869年来日のアレキサンドル、1870年来日のエリオット(S.G.エリオット)およびスティーブンス、1875年来日のパーキンス(H.M.パーキンス)です(※横浜開港資料館報『開港のひろば/2011年発行』には、イーストレーキ以降、計11人の歯科医師が1877年までに来日したとする説が紹介されています)。


イーストレーキの最初の歯科診療所跡(旧横浜外国人居留地108番)は瀟洒なマンションの下

横浜港に注ぐ堀川は外国人居留地建設のため開削された


 そこで今回、まず訪ねたのは、イーストレーキの診療所跡(旧横浜外国人居留地108番/現・山下町108、写真参照)です。現在はマンションの敷地内になっていますが、この場所は山下町と山手町および元町を区分する堀川沿いの山下町側に位置しています。

 堀川(写真参照)は今でこそ、東京・日本橋を流れる日本橋川と同様、頭上を高速道路におおわれた「冴えない川」のようにもみえます。しかし、横浜港の開港に伴って開削された後、歴史上、とても重要な役割を果たした川なのです。

 現在の山下町の内陸側には、江戸時代初期に吉田新田を開拓するため、大岡川の分流として開削された中村川が流れていました。この中村川の流れを、現在の山下町と山手町を区分する形に開削した新たな人工水路に引き込んだのが、堀川(掘割川)です。


1859年の横浜港の開港に伴い、当地に居住していた横浜村の人々は、現在の元町地区に移住。山手居留地と山下居留地に挟まれた立地を生かし、居留地に暮らす外国人向けの商店街としてにぎわった


 現在の山下町や山手町を含む、江戸時代の「横浜村」周辺を描いた絵図を見ると、周辺一帯は田園地帯(吉田新田)と漁村(横浜村)が、大岡川の分流によって区切られているのが分かります。

 外国人居留地がやがて構築される横浜村は、大岡川の本流と分流および眼前の海によって、エリアの三方が囲まれています。

 そこに前述の、中村川の流れを引き込んだ堀川が開削されたことで、エリアの四方が川と海に完全包囲されることになりました。

 これによって、現在の山下町は海と濠(堀・掘割)に囲まれた巨大な出島のような形になったわけです。同時に、日本人と外国人とのトラブルを防止するためにも、外国人を居留地内に閉じ込めておくのにも恰好の掘割になりました。

 そして外国人居留地を囲う河川には関所が設けられていたことから、関所の内側が「関内」と呼ばれることになりました。周知のように、その呼称は現在の地名や駅名にもある「関内」に、そのまま引き継がれています。


外国人居留地に開設された西洋歯科医院の記憶を踏破する

堀川に架かる谷戸橋(元町側から撮影)


 イーストレーキが1865年に歯科医院を開設した旧横浜外国人居留地108番は、堀川に架かる谷戸橋と代官橋の間の山下町側に位置しています。現代の谷戸橋ないし代官橋を山手側に渡ると、すぐ、元町通りにぶつかります。元町通りを突っ切って、さらに山側に入れば、外国人墓地に至ります。

 谷戸橋ないし代官橋から、逆に山下町の内側(中心部)に向かって5分ほども歩けば、中華街にぶつかります。あるいは堀川沿いの道を代官橋よりさらに南下すれば、中華街の朱雀門(南門)の前に出ます。

 横浜港の開港後、最初に進出した欧米の貿易商は、上海に東洋の拠点を置いていたジャーディン・マセソン商会(イギリス系)で、社屋は1860年、外国人居留地1番に設立(前回写真参照)されています。これを皮切りに、外国の貿易商社の進出が本格化しますが、前回書いたように、まちづくりに不可欠なあらゆる商売を営む人々、さらには宗教者や医師、宗教者を兼ねた医師(宣教医)なども続々と来日を果たします。

 そうしたプロセスの中、特に上海や香港に拠点を置いていた欧米の貿易商社は、中国人の使用人を伴って、新たな開拓地・日本(横浜)に来日します。欧米人に伴われた中国人たちは、漢字を駆使する日本人と感覚的に近い東洋人として、欧米人と日本人の間を、さまざまな形で取り持つ役割を果たしていきます。

 そうした中国人がやがて独立し、いわゆる華僑となって形成されていったのが「横浜中華街」でした。華僑の力が増すにつれ、横浜の外国人居留地は欧米系と中華系のエリアに区分され、中国人は中華街、欧米人は中華街以外の居留地全般という棲み分けが生まれます。

 イーストレーキが旧横浜外国人居留地108番(現・山下町108)に診療所を構えた1865年には、まだ中華街は形成されていません。しかし、エリオットが来日した直後の1871年には、現在の関帝廟の原型ともいうべき、中華街の軸をなす寺院が既に完成していました。


 さて、ここから散歩の足を、山下町108のイーストレーキの最初の診療所跡から、先に進めていきます。谷戸橋前の交差点を起点に、山下町の中心部に向かって本町通りをまっすぐ進むと、すぐ左側に巨大な錨(イカリ)が玄関前に設置された、ホテル「エスカル横浜」の前に出ます。

 このエスカル横浜の地番は山下町84。1軒手前のマンションの地番は山下町86。今は両者に吸収され、地図上からは消えてしまっている山下町85こそは旧横浜外国人居留地85番、先に触れたレスノー(1866年にバーリンガムと前後して来日)の歯科診療所があった場所です(写真参照)。

左側のマンションは旧外国人居留地86番、右側のホテルは旧外国人居留地84番。この間の85番にレスノーの歯科診療所があった


外国人居留地の住民たちの心の拠り所となった「旧横浜天主堂」跡(旧外国人居留地80番)


 さらにそのまま前方に進むと「横浜天主堂跡」の交差点下にある、石碑の前に出ます。現在の地番は山下町80。開国後の日本に初めて建設されたキリスト教会でもある旧横浜天主堂(現・山手カトリック教会)は、1862(文久2)年、この地(旧横浜外国人居留地80番)に建設されました。

 1865年に初来日したイーストレーキを始めとする外国の歯科医師たちは、恐らくほとんどが、この天主堂を訪れているのではないでしょうか。中華街の形成が関帝廟の建設とともにあったように、欧米各国から来日し、横浜外国人居留地で暮らし始めた欧米の人々にとっても、横浜天主堂がまちづくりの精神的な核となったことは、容易に想像できます。


 旧横浜天主堂跡の前の道を左に折れるとすぐ、横浜中華街・朝陽門(東門)が見えてきます。右に折れるとホテルニューグランドの横(山下公園の前)に出ます。


かつての外国商館を意識した(?)レンガ色の壁が印象的な「神奈川芸術劇場」の駐車場には、エリオットの歯科診療所(旧外国人居留地57番)があった

神奈川芸術劇場の対面に位置する神奈川自治会館の敷地の一角(横浜外国人居留地75番)には、パーキンスとエリオットの歯科診療所があった


 そのどちらにも行かず、さらに道を前進していくと、右側に赤レンガ色の壁が鮮やかな神奈川芸術劇場(NHK横浜放送局)が見えてきます。そして左側には、神奈川自治会館。

 この二つの建物(写真参照)の敷地の一角にはそれぞれ、イーストレーキとともに近代西洋歯科医学をわが国にもたらした重要人物の二人、すなわちパーキンスおよびエリオットの診療所(横浜外国人居留地75番・57番)がありました。

 (以下、「横浜外国人居留地跡・周辺・散歩編㊦」に続く。※次回は幕末・明治初期の横浜外国人居留地に存在した歯科診療所跡への散歩の続き、そこで提供されていた歯科治療の内容などに触れます)



メイン画像説明


横浜中華街に暮らす華僑たちの心の拠り所となった関帝廟


筆者プロフィール


未知草ニハチロー(股旅散歩家)

日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。