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第3話/「横浜外国人居留地跡と周辺・散歩」編㊤

日本の近代西洋歯科の歴史は横浜外国人居留地から始まった

 今回と次回の本欄では、現在の横浜市中区山下町および山手町にかつてあった「旧横浜外国人居留地」のうち、「西洋近代歯科発祥の地」として知られる山下町の外国人居留地跡を中心に、その周辺も散歩したいと思います。

 江戸時代初期から続いた鎖国体制を改め、日本が事実上の「開国」に踏み切ったのは、1858(安政5)年6月から9月にかけて、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと幕府との間で順次実施された「安政5か国条約(修好通商条約)」の締結からでした。

 条約締結の結果、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎、箱館(函館)、新潟の各港で5カ国の船舶による貿易行為が解禁されました。

 この条約はさまざまな面で日本側に不利益が生じる、いわゆる「不平等条約」の典型でした。日本はその対処に長い間、苦しむことになります。しかし、明治維新の最大目的であった「日本の近代化」を多方面から推進するという意味合いにおいて、条約締結はその大きなスプリングボードにもなりました。

 中でも近代化推進の一つの原動力となったのが、条約によって設置が義務付けられた外国人居留地(上記5港周辺のほか、東京・築地と大阪・川口の計7か所に設置)の存在です。

 とりわけ首都・東京に近い神奈川(横浜)と、大阪・京都に近い兵庫(神戸)の開港は、西洋文明の急速な移入に大きな力を発揮することになります。さらに、横浜の外国人居留地と神戸の外国人居留地を比べると、横浜港の正式な開港が1859(安政6)年7月で、居留地の稼働が1862(文久2)年から1863(文久3)年頃なのに対し、神戸港の正式開港は1868(明治元)年1月で、居留地の稼働開始は同年9月でした。

 横浜の外国人居留地と神戸の外国人居留地は「まちびらき」に5年から6年近い差があったため、例えば貿易商たちの来日や、西洋医薬などの貿易開始は、横浜港および横浜外国人居留地のほうが、神戸港および神戸外国人居留地よりかなり早く始まることになりました。

 外国人居留地には、貿易に関連する人々だけでなく、条約を締結した国のさまざまな職業をもつ人々が暮らすようになります。国籍もさまざまな人々が構成する西洋の町が建設され、そこに暮らす人々の日常生活に必要なすべての設備(医院、薬局、食料品店、雑貨店、ホテル、レストラン、理容店など諸々)が、次々造られていきます。付随して、最先端かつ多彩な外国文化も移入されました。

 外国人居留地内には日本の商人たちも、さまざまなツテを使って出入り(幕府や明治政府の正式許可をもつ人ももたない人も)し、医薬品を始め多種多様な外国製品の輸入や、日本製品(生糸や茶など)の輸出などに関する商行為を行いました。


幕末の横浜外国人居留地(山下町)で最初に建てられた外国商館「英一番館(ジャーディン・マセソン商会)」跡


 日本は維新から7年目の1874(明治7)年に「医制」を公布し、日本の医学・医療の基盤をそれまでの「漢方」から「西洋医学」へと全面的に切り替えます。それに先駆ける形で、横浜の外国人居留地内には幕末から、外国人移住者とともに最新の西洋医学や医療技術、西洋医薬が移入されていったのです。

 もちろん、「歯科医学(治療技術)」についても同様です。横浜には近代化の始まりとともに、たくさんの「日本初」が誕生しますが、「近代西洋歯科医学の発祥地」ともなりました。

 そのことを端的に実感できる場所があります。横浜高速鉄道みなとみらい線・馬車道駅からほど近い場所に立地する「神奈川県歯科医師会」(横浜市中区住吉町)の玄関前です。


イーストレーキの事績を顕彰する「我国西洋歯科医学発祥の地」碑

エリオットとパーキンスの事績および弟子たちの精進を顕彰する「西洋歯科医学勉学の地」碑

 そこには、日本の近代歯科医学の始まりに関する、二つの重要な顕彰碑が設置されています。

 一つは「我国西洋歯科医学発祥の地」碑で、次のような碑文(説明文)が刻み込まれています(一部抜粋)。

 [米国人イーストレーキ(1834~1887)は幕末に来日し、横浜の外国人居留地108番に日本で初めて西洋式の歯科診療所を開いた。彼のもとで長谷川保兵衛、安藤二蔵、佐藤重は西洋歯科医学の知識、技術を学び、我が国の歯科界が発展する礎となった。]

 もう一つは「西洋歯科医学勉学の地」碑で、次のような碑文が刻み込まれています(一部抜粋)。


「西洋歯科医学勉学の地」碑に刻まれた左エリオット(左)、パーキンス(右)の肖像。背後の神奈川県歯科医師会7Fには貴重な歯科関連資料を展示する「歯の博物館」もある


 [エリオット(1838~1915)、パーキンス(生没年不明)は明治3(1870)年~明治14(1881)年頃に横浜の外国人居留地57番と75番で歯科診療を行っていた米国人歯科医師である。彼らのもとで西洋歯科医学の知識、技術を習得した日本人により、その後の歯科界が発展する。エリオット門下の小幡英之助は明治8(1875)年に医術開業試験に合格して初の開業歯科医となり、明治36(1903)年に設立された大日本歯科医師会(日本歯科医師会の前身)の名誉会長を務めた。パーキンスに師事した林譲治、関川重吾は、後に神奈川県歯科医師会の初代会長、第二代会長となった。]


山手町(山手十番館前)に遺る居留地の境界石(居留地を示す石標)。現存数は極めて少ない


 ちなみに「108番」「57番」「「75番」という地番は、現代の横浜市中区山下町の地番とほぼ一致します。横浜外国人居留地は、港に面して外国商社や西洋式病院、各種の商店などが集中していた山下町と、山下町で働く人も含めた外国人たちの住居や教会など生活の場となっていた、隣接する丘の上の山手町に区分できます。


 山手町の地番も山下町と同様、外国人居留地の時代とほぼ一致していますが、どちらにも共通するのは、近代から現代への時代の変遷に伴い、戸建ての建物があった土地がまとめて大きなビルになっていたりする例も少なくないことです。

 しかし、現代に生きる私たちが、旧外国人居留地時代の歴史散歩をしようとする場合には、明治時代の居留地の古地図を片手に現代の地図と見比べながら歩けば、たいていの地番が一致するので、とても歩きやすくて便利。何よりも楽しいので、お勧めです。

大丸神戸店「旧居留地38番館」の背後は旧神戸外国人居留地跡が広がる。38番館の名称は横浜とともに栄えた居留地時代の地番から来ている


3人のアメリカ人歯科医師と日本人弟子たちの「夢の跡」!!

 3人のアメリカ人歯科医師の顕彰碑に話を戻しましょう。

 二つ目の顕彰碑としてご紹介した「西洋歯科医学勉学の地」碑には、エリオットとパーキンスの顔のレリーフも刻み込まれています。また、エリオットとパーキンス両者に学んだ門下生として、松岡万蔵の名も刻み込まれています。松岡万蔵は近・現代の歯科医療に欠かせない歯科技工士の、日本におけるパイオニアとされています。

 二つの顕彰碑に名前が刻み込まれている日本人のうち、日本人歯科医師のパイオニア・小幡英之助と、歯科技工士のパイオニア・松岡万蔵の足跡に関しては、別の回で詳しく触れていきますが、二つの顕彰碑の碑文を見ただけで、イーストレーキ(ウイリアム・クラーク・イーストレーキ)、エリオット(セント・ジョージ・エリオット)、パーキンス(ハラック・マーソン・パーキンス)の3人のアメリカ人歯科医師が、日本の近代歯科医学(医療技術)の発展に果たした役割の大きさが端的に伝わってきます。

 なお、イーストレーキ(イーストレークとする説もあり)について補足すると、幕末から明治初期にかけて計3回、来日を繰り返しています。初めて来日したのは1860(万延元)年ないし1865(慶応元)年とハッキリしませんが、2度目は1868(慶応4年/明治元年)年、3度目は1881(明治14)年で間違いないようです。

 診療所を開設したのは2度目の来日時と3度目の来日時でしたが、診療所の場所は、2度目の来日時が碑文にもある外国人居留地108番、3度目の来日時に開院したのは外国人居留地160番とする説が有力です。

 いずれにせよ、外国人居留地108番で開業していたのは確かで、それは現在マンションが建っている横浜市中区山下町108の地番に当たります。また、3度目の来日時に開業した外国人居留地160番は、現在の神奈川県駐労会館の敷地付近に当たります。

 イーストレーキを顕彰する「我国西洋歯科医学発祥の地」碑も、実は神奈川県駐労会館の敷地内に建てられていましたが、2010(平成22)年、神奈川県歯科医師会前( 「西洋歯科医学勉学の地碑の隣」 )の現在地に移されました。

 エリオットとパーキンスが診療所を開いていた57番と75番は現在、神奈川芸術劇場の駐車場あたりにまとめて吸収されてしまったため、地番は抹消されています(2人を顕彰した「西洋歯科医学勉学の地」碑は、神奈川県歯科医師会創立70周年記念事業として1995(平成7)年、神奈川県歯科医師会前の現在地に新設されました)。

 さて、実際のところ、イーストレーキ、エリオット、パーキンスの歯科医師としての実力はどうだったのでしょうか。

 その点についての詳細は実は不明です。しかし、イーストレーキは死後にOhio College of SurgeryからD.D.S(歯学博士号)を授与されたと伝わっています。エリオットはフィラデルフィア歯科医学校卒(現・ペンシルバニア大学歯学部)であり、パーキンスはボストン歯科学校卒との記録が残っています。

 前々回の本欄で触れたように、近代歯科医療の技術的な体系は、建国(1783年)から間もない19世紀半ばのアメリカ合衆国で発祥しました。世界初の歯科医学専門学校「ボルチモア歯科医学校(現メリーランド大学歯学部)」が1840年に開学。明治維新前年の1867年には、世界初の大学歯科医学部がハーバード大学に設立されるなど、歯科医療の技術を体系的に教育する環境面で、当時のアメリカは世界最先端でした。

 イーストレーキ、エリオット、パーキンスはまさにその初期の教育を受けた第一世代で、日本に当時の世界最先端の歯科医療技術を持ち込んでいたであろうことが、研究者たちからも推測されています。

 彼らの歯科医療の技術(方法)の詳細は明確ではないものの、例えばイーストレーキに関しては、断片的ですが具体的な治療法の記録もいくつか残されています。さらに、彼らの治療法に、後世の予防歯科に繋がるような要素が既にあったのかどうかも、興味深いところです。

当地には今も「日吉歯科診療所」は存在し、熊谷先生から継承した大学後輩の斉藤先生が、受付周りはそのままの状態で使用しています


 次回はそのあたりの事情も含め、近代歯科医療の痕跡を横浜外国人居留地跡に訪ねる、よりディープな散歩を展開してみたいと思います。(以下、「横浜外国人居留地跡・周辺・散歩」編㊦」に続く)



メイン画像説明


氷川丸(国指定重文)が係留されている山下公園は、関東大震災後の埋め立て工事を経て1930(昭和5)年に開園。公園の向こう側はすぐ、山下町の外国人居留地跡だ


筆者プロフィール


未知草ニハチロー(股旅散歩家)

日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。