第7話/「銀座・日本橋・浅草から始まる近代歯科第1世代の記憶」(日本橋/浅草・散歩編①)
ヨコハマ仕込みの小幡英之助とアメリカ仕込みの高山紀齋
前回の「銀座・散歩編」では、日本人歯科医師第1号として知られる小幡英之助の活躍ぶりや、当時の歯科界の状況などをあれこれ絡めながら、小幡が歯科医院を経営していた明治時代の銀座を「時空散歩」しました。
今回と次回は「時空散歩」の主要舞台を明治時代の「日本橋と浅草」に移しますが、その前に「銀座編」にちょっと補足をさせてください。前回の銀座編では触れられませんでしたが、銀座を最初の足場にその後大きく飛躍した、日本の初期・歯科医学(医療)史に不可欠な重要人物がもう一人いるのです。
その名は高山紀齋。わが国最古の歯科大学「東京歯科大学」のルーツ「高山歯科医学院」を、1890(明治23)年に創設しました。
高山紀齋が1890(明治23)年に設立した高山歯科医学院跡に建つ「歯科医学教育発祥之地」碑
(伊皿子坂/港区三田4丁目)
前回触れたように、横浜の外国人居留地で歯科医院を開いていたセント・ジョージ・エリオット(フィラデルフィア歯科医学校/現ペンシルバニア大学歯学部卒業)のもとで修業した小幡英之助が、第1回医術開業試験を見事パスして、東京府京橋区采女町26番地(現中央区銀座5丁目)に日本人として初の歯科医院を開設したのは、医術開業試験合格の直後、1875(明治8)年夏のことでした。
高山紀齋は3年後の1878(明治11)年6月、やはり銀座に歯科医院を開設しています。ヨコハマ仕込みの小幡英之助が明治政府(内務省)の実施した「医術開業試験」に合格し、晴れて銀座に開業したのに対し、高山紀齋はすべてが「アメリカ仕込み」でした。
高山紀齋は小幡英之助の開業より3年前、小幡が横浜外国人居留地で修業していた時期と重なる1872(明治5)年1月に、私費留学生として渡米しました。そして、6年後の1878(明治11)年3月、アメリカの歯科医師開業試験に合格直後に帰国。同年6月、銀座3丁目(旧京橋区銀座3丁目)に「高山歯科診療所」を開業したのです(※当時の制度では、外国の大学医学部を卒業するか外国で医師資格を取得した人には、医術開業試験を受けなくても日本の医籍が付与されました)。
ちなみに、高山紀齋がアメリカ(サンフランシスコ)に留学した当初の目的は、歯科医師を目指すためではありませんでした。岡山出身の高山は故郷で英語・英学を学んだ後、1870(明治3)年に上京し、当時は築地にあった英学塾時代の慶應義塾に入学。さらに並行して、築地外国人居留地で私塾を開いていたアメリカ人宣教師カザロス(クリストファー・カザルス)の弟子となり、本場の英語と英学をより深く学んでから、特に目的を定めず、自分に向いた新時代の仕事をモノにしたいという「青雲の志」だけを抱いて、新大陸・アメリカに渡ったのです。
高山紀齋の各種評伝によれば、甘いもの好きな高山はアメリカの菓子を食べ過ぎてひどい虫歯(う蝕)になり、サンフランシスコで歯科の名医とされていたバンデンボルク医師(ダニエル・バン・デンブルク)の診療所で治療を受けます。その際、特に目的のないままにアメリカにやってきた青年・高山紀齋が「日本にはまだ西洋の歯科医に相当するような近代的な歯医者がいない」というのに対し、バンデンボルク医師は「君が日本の歯科医師のパイオニアになればいい」とアドバイス。そこで高山はバンデンボルクの歯科医院に住み込み、歯科診療の現場で働きながら「本場の歯科医術」を一から実地に学び、アメリカの歯科医師開業試験を目指すことになりました。
ヨコハマ仕込みの最新の歯科医術を基盤に、日本の医術開業試験を「歯科」で合格した小幡英之助の診療所は大評判となりますが、3年遅れで銀座に開業した、アメリカ仕込みの高山紀齋の診療所も大評判となります。
日本人による西洋式歯科医院の開業では小幡英之助が先行しました。しかし、当時の世界の歯科医学の先進地・アメリカで一から修業して、現地の歯科医師開業試験にも合格、小幡のわずか3年後に銀座で歯科医院を開業した高山紀齋もすごい。
小幡英之助と高山紀齋の2人を合わせて、日本における「近代歯科のパイオニア」というべきではないでしょうか。
実際、2人は後に盟友関係となり、日本の初期歯科界のけん引役を果たしていきますが、そのあたりの詳細は、本コラムで追い追いご紹介していきます。高山紀齋が東京歯科大学のルーツとなる「高山歯科医学院」を創設した後のいきさつなども、また別の回に譲りたいと思います。
何はともあれ、明治時代初期の日本の歯科医療および近代歯科医学は、こうして小幡英之助や高山紀齋、さらには彼らに続く後進(表題にある近代歯科第1世代)たちの手で、銀座を中心に芽生え、急速に拡大していくのです。
今回お届けする「日本橋/浅草・散歩編」の主役の1人、日本初の女性歯科医師となる高橋コウは、さしずめ、近代歯科第1世代のラストを飾るヒロインといえます。
日本初の女性歯科医師・高橋コウとその父・高橋富士松
よく知られているように、日本橋と浅草は江戸時代初期から江戸を代表する盛り場でした。それに対し、盛り場としての銀座の名声は、むしろレンガ街が完成する明治時代以後に高まります。
江戸時代の代表的な幹線道路網「五街道」の出発点に定められ、人・モノ・コトが行き交う日本経済の中心地としてのまちづくりが、江戸初期から徳川幕府によって行われてきた日本橋。一方、現存する都内最古の寺としても知られる浅草寺(創建は伝・平安時代)の門前町として栄え、江戸時代初期から「遊興の地」としてにぎわった浅草。どちらも江戸市民はもちろん、全国各地から江戸にやってくる人々の憧れの盛り場でした。
神田川・一石橋のたもとに設置された「迷子石(迷子しらせ石標)」(中央区八重洲1丁目)はかつての日本橋エリアの凄まじい混雑ぶりを今に伝えている
例えば、日本橋周辺や浅草周辺には、江戸時代にいくつもの「迷子石」(石柱/迷子しらせ石標)が設置されていました。迷子石とは、日本橋見物・浅草見物にやってきた人たちが迷子になった場合に備え、それらの迷子石の周辺をあらかじめ待ち合わせ場所に決めておいたり、はぐれた人に連れの人が連絡先を知らせるための紙などを貼る「掲示板」のような役割も果たした石づくりの道標です。
公衆電話も携帯電話もない当時、人出でごった返す盛り場では迷子が続出しました。さらに迷子石が絶対に必要なほど、日本橋と浅草のにぎわいは凄まじかったわけですが、明治時代に入っても、そのにぎわいは同様でした。
小幡英之助や高山紀齋が相次いで開業した明治初期の銀座と同じく、人がたくさん出入りする繁華な街に医療機関が多く作られるのはモノの道理というもので、日本初の女性歯科医師・高橋コウ(孝、孝子)は、1872(明治5)年12月、そんな恵まれた環境の日本橋で3代続く口中医の家に生まれました。
父の名は高橋富士松。高橋コウの生誕地でもある口中医・高橋富士松の診療所兼自宅は、現在の日本橋本町2丁目にありました。
室町3丁目交差点。この付近に日本発の女性歯科医師・高橋コウの「高橋歯科医院」があった
やがて成長した高橋コウは、1894(明治27)年、満21歳で医術開業試験に合格。歯科医籍第235号として登録を済ませた後、日本橋本町に隣接する日本橋室町3丁目に、西洋歯科の診療所「高橋歯科医院」を開業します。
医歯薬出版株式会社の創業者で、みずからも歯科医として活躍した今田見信の論文『日本における婦人歯科医の誕生―高橋コウ女史をめぐって―』(日本歯科医史学会会誌・1975/昭和50年5月号掲載)によれば、高橋コウは、幼い頃から父親の指示で私塾に通い、勉学に励んだそうです。さらに、小幡英之助の弟子でもあった父・富士松が同志(神翁金斉、竹沢国三郎など)とともに創設した日本最初期の歯科医学研究会、実質的には医術開業試験の歯科受験者のための勉強会でもあった「歯科矯和会」(1888/明治21年発足。後に歯科講義会、私立大日本歯科講義会などに改称・改組する)にも、10代半ばから通い学んでいます。
両国広小路跡の碑。高橋富士松たちが設立した「歯科矯和会」の発会式は、浅草橋からも近い両国広小路の料亭・井生村楼(台東区柳橋1丁目)で行われた
高橋富士松たちの歯科矯和会の名は、日本の歯科教育史の研究書などには、高山紀齋が「高山歯科医学院」(東京歯科大学のルーツ)を1890(明治23)年に創設する以前に芽生えた、日本初にして代表的な歯科研究会の一つとして、必ずといっていいほど登場します。
1848(嘉永元)年に日本橋に生まれた高橋富士松は、やはり口中医だった父の跡を継いで15歳で口中医となり、1875(明治8)年、27歳のときに、銀座に開業したばかりの小幡英之助に弟子入り。約2年間にわたって、西洋歯科の修業をしたものの、医術開業試験は受けず、入歯や抜歯などを中心とする口中治療医のまま、生涯を過ごしたと伝わっています。しかし、口中医としての技術には優れていたようで、後に宮内省に招聘され、宮中の高級女官たちの口中治療を任されたとも伝わっています。
明治維新後、西洋医学の急速な導入が始まり、旧来の漢方医に対する西洋医の全盛時代が始まります。しかし、明治時代初期の皇室には西洋医だけでなく漢方医も相変わらず出入りし、皇族や女官たちの治療に当たっていました。その背景には西洋医の絶対数がまだ足りなかったことや、漢方医にも西洋医に劣らない名医が少なからずいたという事情なども挙げられるでしょう。高橋コウの父・富士松も、皇室に招聘されるほど、口中医としての信頼を集めていたのだと思われます。
薬の街・日本橋の守護神「薬祖神社」の裏側にそびえたつ製薬会社の高層ビル群
さて、高橋コウの生誕地・日本橋本町や、歯科医院を開いた日本橋室町には、今日でも日本を代表する製薬会社を中心に、大小多数の薬品メーカーや商社などの本社・支社が立地しているのをご存じでしょうか。
その背景には、徳川家康が江戸幕府を開設した際、日本橋を江戸の中心地と定めただけでなく、現在の日本橋本町や日本橋室町のエリアに薬品問屋を集め、「薬の街」として発展するような街づくりを意図的に行ったという歴史的事実があります。
同様に家康の後継者である2代将軍・徳川秀忠は、大阪の道修町に薬品問屋をたくさん集め、江戸の日本橋と並ぶ「薬の街」としました。そのため、大阪・道修町にも現在、東京・日本橋と同様に、日本を代表する製薬会社をはじめ、大小多数の薬品メーカー、商社などの本社・支社が軒を並べています。
日本の製薬産業は世界的な規模と質を誇りますが、その拠点は日本橋と道修町が今も担っているのです(大手製薬会社の場合、大阪は国内販売の拠点、日本橋はグローバル展開を担う拠点というような色分けをしているケースも多いようです)。
そのような環境にある明治時代初期の日本橋で、代々続く口中医の家に生まれ育った高橋コウは、生まれながらに「日本初の女性歯科医師」になるべく運命づけられていた人なのかもしれません。
近代歯科発展史の隠れた功労者・清水卯三郎の登場と覚醒
その高橋コウに、幼少の頃から歯科医療に関する英才教育を行った父・富士松も、なかなか興味深い人物です。小幡英之助に弟子入りして西洋歯科医術を学んだ富士松がなぜ、口中医のまま生涯を終えたのかについては、よく分かりません。しかし、富士松の歯科医術および歯科医学に対するマニアックなまでの探求心・情熱の発露は、前出の歯科矯和会の創設や娘・コウへの英才教育だけにとどまりません。
例えば1871(明治9)年、日本橋本町に店舗を構えていた貿易商社「瑞穂屋」の主人・清水卯三郎は、日本人として初めて、アメリカのホワイト社から歯科関連の資機材を直輸入するようになり、近代初期の日本の歯科医療に画期的な足跡を印します。
そして、清水卯三郎がこれらの歯科関連の資機材を輸入するキッカケを作ったのも、歯科矯和会を設立した高橋富士松・神翁金斉(金松とする説もあり)・竹沢国三郎の同志トリオだったのです。
清水卯三郎に関する評伝類を突き合わせると、清水卯三郎の瑞穂屋は、日本橋本町にあった口中医・高橋富士松の診療所に隣接していたとされます。
清水卯三郎の多彩な履歴に関しては、次回でご紹介したいと思いますが、幕末に幕府の使節団とともにフランスに渡り(使節団の中にはあの渋沢栄一もいました)、帰国の途次にアメリカにも渡った経験のある清水卯三郎は、アメリカで最先端の歯科用資機材を見聞していました。
そしてある日、清水卯三郎が高橋富士松の診療所をのぞいてみたところ、口中医とはいえ小幡英之助の弟子でもあった富士松が使っている歯科用・各種治療器具の前近代性に驚嘆。アメリカの歯科用資機材がいかに優れているかをこんこんと説明しました。
興味をかきたてられた富士松が、清水卯三郎から聞いた話を、神翁金斉と竹沢国三郎にすると、2人とも大興奮。さっそく清水卯三郎を通じて、アメリカから幾つかの歯科用資機材を直輸入してもらいます(※神翁金斉と竹沢国三郎は富士松と同じ口中医。富士松と同様に進取の気性に富んだ人々で、西洋歯科の素養もあり、入歯作りの名人ともされていたようです)。
日本の代表的な歯科関連機器メーカー「株式会社モリタ製作所」の長谷川俊夫元会長が、1976(昭和51)年に『日本歯科医史学会会誌』に発表した論文「我国歯科器械の発展について」によると、神翁金斉や竹沢国三郎の要請で、清水卯三郎がホワイト社(現エスエスホワイト社)から初めて直輸入した資機材の内訳は「蒸和罐(鉄蓋釜)、足踏レーズ(砥石車)、抜歯用鉗子、アマルガム(歯科用水銀アマルガム)など」だったとされています。
これは清水卯三郎にとっても、アメリカの歯科用資器材の初めての直輸入体験であり、明治時代初期の総合商社・瑞穂屋はその後、日本初となる国産歯科用資機材の生産工場を設立するに至ります。
また、神翁金斉は後に瑞穂屋を通じ、麻酔用の笑気ガス吸入器を日本で初めて輸入します。これも日本の近代歯科医療史において、一般にはあまり知られていない画期的なエピソードの一つでしょう。
さらに清水卯三郎の瑞穂屋は、歯科医療関係の図書出版も手掛けるようになり、前回少し触れた日本初の歯科衛生に関する啓もう書『固齢草-名・歯牙養生譚』(伊澤道盛著)のほか『歯科全書』などの学術書も出版。洋書輸入においても丸善と双璧といえるような華々しい業績を挙げています。(以下、次号に続く/文中敬称略)
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両国橋から見る現代の墨田川
筆者プロフィール
未知草ニハチロー(股旅散歩家)
日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。