Skip to main content

スウェーデン・ノーベル賞博物館より

 2025年のノーベル生理学・医学賞は、坂口志文教授を含む3名の研究者に授与されました。彼らの研究は、免疫の働きを根本から捉え直したものとして高く評価されました。免疫とは、体を病気から守る防御システムです。細菌やウイルスが体内に侵入したとき、それを見分け、排除し、再び同じ敵が来たときには素早く対応します。

 坂口教授はその免疫システムの中でも「制御性T細胞」という特定の細胞集団に着目し、それらが免疫反応を制御することで、自己と非自己をどのように識別し、自己組織への過剰な攻撃を防いでいるのかという問題を解明されました。この発見により、免疫系が単に病原体と闘う「アクセル」だけでなく、反応の暴走を防ぐ「ブレーキ」としての仕組みも備え、精密に制御されていることが示されました。おかげで、自己免疫疾患、アレルギー、移植拒絶反応、さらにはがん免疫療法に至るまで、極めて広範な医学分野に新たな治療の可能性をもたらしました。その恩恵は、歯科領域も例外ではありません。

 口腔の中は食事や会話を通じて常に外界にさらされ、体の中でも細菌やウイルスが侵入しやすい環境にあります。口腔の病気の多くは免疫のバランスの乱れと深く関係しています。つまり、歯や歯ぐきは常に細菌にさらされながらも、免疫の働きによって微妙なバランスを保っています。たとえば、重度の歯周病では、細菌に対抗する免疫反応が強くなり過ぎ、自分で自分の歯の周りの骨を破壊してしまいます。ここで活躍すると考えられているのが、坂口教授の研究によって明らかになった「制御性T細胞」です。この細胞が適切に機能している場合、歯の周りの炎症が制御され、骨破壊が抑えられることが示されています。

 ところが、「制御性T細胞」は常に善玉とは限りません。口腔がんや前がん病変では、「制御性T細胞」が増え過ぎることで、本来がん細胞を排除すべき免疫反応まで抑え込んでしまうことがあります。研究によって、口腔がん組織において「制御性T細胞」が多いほど免疫反応が抑制され、腫瘍が生き延びやすくなっている可能性が示されました。このような状況では「制御性T細胞」は、がんにとって都合の良いブレーキになってしまうのです。

 坂口教授の研究がもたらした最大の変化は、免疫を一律に強めたり弱めたりするのではなく、状況に応じて調整するという治療発想です。将来は次のような歯科医療が期待されています。

  • 歯周病では「制御性T細胞」を増やして炎症を抑える免疫治療
  • 口腔がんでは「制御性T細胞」の働きを弱めて免疫の攻撃力を回復させる治療

 ところで、私は今年の授賞式当日である12月10日にスウェーデンのストックホルムに滞在しており、ノーベル賞博物館で授賞式のライブ中継を視聴する機会に恵まれました。この博物館には歴代受賞者が自身の研究や発見にちなんだ品を寄贈されています。今年の受賞者の展示棚の前を通った際、坂口教授から贈られた人気漫画「はたらく細胞」の日本語の文字が私の目に飛び込んできました。「はたらく細胞」は約10年前に出版された清水茜さんの作品ですが、「制御性T細胞」についても擬人化して描かれており、子どもたちの間でもこの概念が広く知られているのだそうです。


写真説明

ノーベル賞博物館に坂口志文教授が寄贈されたマンガ「はたらく細胞」と清水茜さんの祝賀イラスト


参考文献



筆者プロフィール

Makiko NISHI

西 真紀子
NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP)理事長
(旧称 「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」)

1996年 大阪大学歯学部卒業
     大阪大学歯学部歯科保存学講座入局
2000年 スウェーデン王立マルメ大学歯学部カリオロジー講座客員研究員
2001年 山形県酒田市 日吉歯科診療所勤務
2007年 アイルランド国立コーク大学大学院修士課程修了
Master of Dental Public Health (MDPH)取得
2010年 NPO法人「科学的なむし歯・歯周病予防を推進する会」(PSAP)理事長
(旧称 「最先端のむし歯・歯周病予防を要求する会」)
2018年 同大学院博士課程修了 
   Doctor of Philosophy(PhD)取得

X Instagram