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第11話/「専門学校から歯科大学へ~けん引者たちの歩みにみる歯科医学史~」(近代歯科・事始めを巡る散歩③)

    明治から大正にかけて公衆衛生の基盤を整備/後藤新平の「残り香」を体感

     前回の本欄では、旧東京医科歯科大学歯学部(現東京科学大学歯学部)のルーツ「東京高等歯科医学校」(1928/昭和3年発足)の創設者にして初代校長(および教授、同付属医院初代院長)でもあった、島峰徹(しまみねとおる、1877/明治10年~1945/昭和20年)の足跡を追う散歩を行いました。

     具体的には、島峰徹の旧居跡を活用した「新宿区立延寿東流庭園(えんじゅとおるていえん)/新宿区中落合4丁目」の周辺と、JR御茶ノ水駅からほど近い「東京科学大学歯学部(湯島キャンパス)」の周辺を歩いたのです。

     東京科学大学(旧東京医科歯科大学)の関連施設が集中する御茶ノ水駅周辺には、江戸城の堀を兼ねて徳川家康が17世紀初頭に開削した神田川をはさみ、外堀通り沿いには歯学部や附属病院などの並ぶ湯島キャンパスが、内堀の高台には駿河台キャンパスがそれぞれあります。


    順天堂大学の初期に建設された「順天堂醫院」を復元した新研究棟。外堀通り際の新名所だ


     筆者が歩いたのは外堀通り沿いに水道橋駅、さらには飯田橋駅方面へと至るコースです。前回ご紹介したように、その途中、順天堂大学医学部の裏側には、1875(明治8)年から1916(大正5)年まで実施された医術開業試験で最多の合格者(医師/一部歯科医師)を輩出した「旧済生学舎(現日本医科大学)」の跡地があります。


    元町公園は現在、リニューアル中。公園内の設備の一つ一つが、アールデコ調の装飾的な意匠に満ちていた。どのように変わるのだろうか


     さらに外堀通りを進むと、右側の高台にはつい数年前まで現役の公園として、また、近隣の災害避難所としても機能していた「元町公園(現在、リニューアル工事実施中)」が見えてきます。


    外堀通りからリニューアル工事中の元町公園と、リニューアル済みの旧元町小学校(現もとまちウェルネスパーク/背後の茶色い建物)を概観


     元町公園の後ろ側には、かつて文京区立元町小学校 (文京区本郷1丁目)がありましたが、現在は統廃合の末にリニューアルされ、文京区と順天堂大学医学部が連携して運営する健康交流施設「もとまちウェルネスパーク」になっています。

     この旧元町小学校&元町公園は、1927(昭和2)年にセットで建設された「復興小学校&復興小公園」の一つでした。

     復興小学校とは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で倒壊したり、焼失したりした旧東京市立小学校117校を再建する際に、震災にも負けない強度と火災に強い校舎を実現するため、モダンな「鉄筋コンクリート造(RC造)」で再建された小学校の総称です。

     また、再建に付随して、復興小学校の隣接地には、近隣の人々の日常的な交流スペースと、災害の際などに一時避難するためのスペースを兼ねた復興小公園が造られました。

     復興小学校&復興小公園のほとんどは、すでに取り壊され、跡地は別の形で活用されていますが、旧元町小学校&元町公園は、ほんの数年前まで原型をとどめていました。しかし、前述のように旧元町小学校は「もとまちウェルネスパーク」にリニューアル(ただし、建物内部の構造は元町小学校のそれがかなり保存されている)され、元町公園も写真にあるように現在、リニューアル工事が進みつつあります。

     近現代歯科医療史にあまり関係のなさそうな、旧元町小学校&元町公園の「その後」をあえてご紹介するのは、この「復興小学校&小公園」の企画を発案し、推進することに尽力した中心人物が「あの後藤新平」だからです。

     後藤新平に「あの付き」で触れるのは、ほかでもありません。後藤新平こそは、歯科医療も含む明治時代の日本の医療行政・医学教育行政の基盤構築を、中心的にけん引した旧内務省を代表する人物の一人だからなのです。

     後藤新平は明治維新の11年前にあたる1857(安政4)年、仙台藩領・水沢城下(現岩手県奥州市)に生まれました。家系は代々の仙台藩士で、後藤新平は幼少の頃から神童といわれるほどに優秀でした。しかし、仙台藩は戊辰戦争の際に旧幕府軍側についたため、後藤新平は「賊軍(負け組)」の血筋とされ、明治維新後しばらくは「出世の道」を半ば断たれるような境遇に置かれました。

     そこで後藤新平が選んだのは、賊軍の家系の出身だろうと関係なく、実力さえあれば世に出られる「医学」への道でした。

     後藤新平は洋学校や、医学専門学校などで学んだ後、病院での勤務を経て、20歳になったばかりの1877(明治10)年に「医術開業試験」を受験、みごと合格します。

     さらに25歳になったばかりの1882(明治15)年には、内務省衛生局にヘッドハンティングされ、それ以後、内務省衛生局長、ついには内務大臣など出世の階段を猛スピードで駆け上がっていきます。

     内務省はほぼ今日の総務省と一部厚労省にも相当する省庁で、地方行政をつかさどる役割を果たしていました。中でも明治維新とともに、西洋医学を導入したばかりの日本においては、医療行政(公衆衛生)をつかさどる重要な役割を推進。かつては「賊軍の出」と蔑まれ、実力に見合った出世の道を断たれかけた後藤新平は、みずからの実力一本で、薩摩藩や長州藩など「勝ち組」出身の政治家たちと互角以上に渡りあえる地位を獲得したのです。

     その間、後藤新平が成し遂げた実績は数えきれないほどですが、そのうちの一つとして今も語り伝えられているのが、関東大震災の際に果たした「復興責任者」としての実績です。

     1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、推定10万5000人以上ともされる死者・行方不明者を出した、明治維新以降では最大の地震災害です(東日本大震災の死者・行方不明者は2万2325人、阪神淡路大震災の死者・行方不明者は6434人)。

     関東大震災が発生した1923年9月1日の翌日、つまり同年9月2日に、時の総理大臣・山本権兵衛は後藤新平を「内務大臣兼帝都復興院総裁」に任命。後藤にとって内務大臣への就任は2度目のことでしたが、今回は公衆衛生の専門家の視点を生かしつつ、関東大震災で半壊した帝都(首都)・東京の復旧・復興事業、帝都の新たな都市計画立案の責任者という大任をも務めることになったのです。

     後藤新平はさっそく、大胆な復興計画を立て、すみやかに実行していきます。その復興計画の一つの事例が、例えば現在の昭和通りや明治通り、靖国通りなど、災害時にも混乱を避けられる幅の広い幹線道路造りであり、あるいは外堀通り沿いの「旧元町小学校&元町公園」をはじめとする、東京市全域100か所以上の「復興小学校&小公園」建設事業などです。

     詳細は省きますが、内務大臣兼帝都復興院総裁として、関東大震災の際に後藤新平が立案した復興計画は、結果的に政敵や予算を大々的に抑えようとする役人たちなどの手で、次第に骨抜きにされていきます。しかし、100年先を見据えた復興計画、新都市計画の素晴らしさは、東日本大震災の際に再脚光を浴び、「今の時代に後藤新平がいたら!!」という声が盛んにマスコミをにぎわせました。それは遅々として復旧・復興の進まない、能登半島地震の被災者の皆さんなどにも、いえることではないでしょうか。

     「旧元町小学校&元町公園」をはじめとする「復興小学校&小公園」の建設計画は、後藤新平の復興計画、さらには未来を見据えた都市計画の先見性が端的に現れた事業の一つといえます。

     そしてこれは偶然ですが、元町公園の造られた場所は、実は後藤新平の旧居がかつてあった場所であるともされています。

     寄り道が少し長くなってしまいました。しかし、外堀通り沿いの高台にある「その地」に住み、あの後藤新平が、日本の公衆衛生の基盤構築について、また歯科医療を含む日本の医療行政の未来像について、さまざまな構想を巡らせていたのかもしれないとおもうと、素通りはとうていできないのです。


    史上2校しかなかった女子歯科医学専門学校の一つの跡地経由➡飯田橋駅・水道橋駅方面へ

     東京歯科大学および日本大学歯学部の立地するJR水道橋駅周辺、ならびに日本歯科大学の立地するJR飯田橋駅周辺への道行をここから再開しますが、その前に寄り道をもう一つだけ、させてもらいます。

     今度の寄り道は、日本の歯科医学教育史に関連する「重要ポイント」の一つです。近現代歯科散歩を標榜する本欄としては、ここに寄らなければ、次に向かうことはできません。


    東洋女子歯科医学専門学校を基盤に発展した東洋学園大学


     住所でいうと先ほどの旧元町小学校と同じ文京区本郷1丁目のエリアですが、元町公園&元町小学校の裏側に延びる坂をしばらく上がると、壱岐坂にぶつかります。そして、壱岐坂沿いの「壱岐坂交番交差点」の対面に立地し、大きな壁画タイルの意匠が遠くからも印象的な東洋学園大学のキャンパスこそ、その重要ポイントです。

     東洋学園大学は今日、国際人育成を主要目的とする男女共学の私立大学ですが、そのルーツは1917(大正6)年9月に発足した、女性限定の歯科医学校「明華女子歯科医学講習所」でした。

     女性歯科医師を養成するべく立ち上げられた医学校は、史上2校だけありました。明華女子歯科医学講習所に加え、同講習所より8年早い1909(明治42)年に、神田猿楽町に設立された「東京女子歯科医学講習所」です。

     現在、神奈川歯科大学のルーツとしても知られる東京女子歯科医学講習所は、東京女子歯科医学校(1910/明治43年)、東京女子歯科医学専門学校(1922/大正11年)へと改組しながら発展します。

     1934(昭和9)年には、日本女子歯科医学専門学校と改称しますが、終戦直後の1946(昭和21)年に施行された学制改革を受け、1950年に出された専門学校廃止令により閉校。代わりに1952(昭和27)年、日本女子衛生短期大学を開学し、歯科衛生士の養成を開始します。

     そして1963(昭和38)年、短大の運営と並行して神奈川歯科大学を設立、今日に至るのです。

     一方、明華女子歯科医学講習所は、設立年で先行していた東京女子歯科医学校が東京女子歯科医学専門学校へと移行する前年の1921(大正10)年に、国が施行した「専門学校令」に基づき、日本初の女子歯科医学専門学校「明華女子歯科医学専門学校」へと改組しています。

     さらに1926(大正15)年には「東洋女子歯科医学専門学校」に改称するとともに、女性限定の歯科医学専門学校としては初の「文部大臣指定校」となります。

     前回から巡り歩きはじめた、日本の歯科医学教育を伝統的にけん引してきた「旧6歯科大学」のうち東京に立地している4校、つまり、東京歯科大学、日本歯科大学、日本大学歯学部、東京科学大学(旧東京医科歯科大学)歯学部は、前回も触れたように、歯科医学専門学校としての出発が1907(明治40)年から1928(昭和3)年までの期間に集中しています。

     それを踏まえれば、日本初の女性限定かつ文部大臣指定校となった歯科医学専門学校として、1926年に出発した「東洋女子歯科医学専門学校」は、旧東京医科歯科大学の前身「東京高等歯科医学校」が発足した1928(昭和5)年より2年早く誕生した、ということになります。

     また、前回述べたように、東京高等歯科医学校が現在地(旧東京医科歯科大学/現東京科学大学歯学部のある湯島キャンパス)に移転したのは、東洋女子歯科医学専門学校の設立と同年の1926年のことでした。

     東洋女子歯科医学専門学校は、しかし、誕生から20年目の1945(昭和20)年4月、第2次大戦に伴う東京大空襲で被災し、施設を焼失してしまいます。

     そして、終戦翌年の1946(昭和21)年5月に、千葉県津田沼町(現習志野市津田沼)の仮校舎に移転。そうした困難な状況の中、翌1947(昭和22)年4月に実施された「第1回歯科医師国家試験」において、合格率が全国第2位という素晴らしい成績を挙げます。

     ところが同年5月の学制改革の際、新制歯科大学への移行がかなわず、1950(昭和25)年に東洋女子歯科医学専門学校は閉校。代わりに短期大学英語科の認可を得て、英語教育者養成を目的とする東洋女子短期大学へと転身。東洋学園大学へと発展していきます。

     後年に神奈川歯科大学へと継承された旧東京女子歯科医学専門学校に比べると、史上2校しかなかったもう一つの女子歯科医学専門学校である「東洋女子歯科医学専門学校」の、歯科医師養成(教育)の場としての命運は、そうした経緯で1950年に尽きてしまいます。

     しかし、1917年に発足した前身の明華女子歯科医学講習所時代からの約30年間で、総計約2800名もの女性歯科医師を輩出した実績が色あせることはないはずです。

     また、前々回の本欄でご紹介した、日本初の女性歯科医師・高橋コウが1894(明治27)年に公許歯科医師となって以降、女性歯科医師の登録者数(歯科医籍)は伸び悩み、明華女子歯科医学講習所が発足した1917年の登録者数はわずか約30人だったといいます。それが1918年には約40人、1919年には約50人と、コンスタントに増えはじめたのは、先行していた東京女子歯科医学講習所(東京女子歯科医学校→東京女子歯科医学専門学校→神奈川歯科大学)に加え、明華女子歯科医学講習所(→東洋女子歯科医学専門学校)が誕生したことによる相乗効果の一つといえるのかもしれません(※女性歯科医師の歯科医籍登録者数などの参考資料/論文『東京市本郷区域における女子歯科医学校の設立』永藤欣久著、日本医史学雑誌第66巻第2号掲載/2020年発行)。


    東洋学園大学のキャンパス前には東洋女子歯科医学専門学校の跡地であることを示す記念碑が設置されている


     東洋学園大学本部校舎の前には、写真にあるように、現在、かつてこの地に東洋女子歯科医学専門学校があったことを記した記念碑が設置され、道行く人の目をひそかに引きつけています。


    日本の近代史および医学・歯科医学の歴史が複雑華麗に織りなす御茶ノ水・水道橋・飯田橋エリア

     寄り道&寄り道の連続で恐縮ですが、外堀通り沿いの散歩はここでいったん切り上げ、JR水道橋駅からひと駅目のJR飯田橋駅まで総武線で移動します。


    JR飯田橋駅西口の改札口を出ると、目の前には、いかにも頼もしい日本歯科大学附属病院の堂々たる建物


     2020(令和2)年にリニューアル開業したばかりのJR飯田橋駅のまだ新しい西口改札を出ると、堂々たるたたずまいの日本歯科大学附属病院が出迎えてくれます。

     JR飯田橋駅周辺が東京歯科大学の次に古い歴史を持つ日本歯科大学の「本拠地」であることが、その一事だけでも納得されます。

     なにしろ、JR飯田橋駅の玄関(正面改札口)先に広がる駅前広場が、そのまま日本歯科大学附属病院の正面入り口になっているといった趣(おもむき)なのです。


    逓信病院の敷地にはかつて日本赤十字社の前身、博愛社が建っていた。敵も味方もなく誰をも治療する赤十字精神は、まさに博愛主義そのもの


     このJR飯田橋駅西口前から、中央・総武線沿いの土手(神田川の皇居よりの堤)を、市ヶ谷方面に100mほども進むと、東京を代表する総合病院の一つ「逓信病院」の威容を目の当たりにすることができますが、逓信病院の敷地は「日本赤十字社発祥の地(千代田区富士見2丁目)」でもあります。

     1877(明治10)年、すなわち先に触れた後藤新平が、弱冠20歳で医術開業試験に合格したのと同年に、日本赤十字社の前身である「博愛社」がこの地に発足したのです。


    与謝野鉄幹・晶子夫妻旧居跡の敷地は、こんもりとした、小さくてかわいい丘のような「たたずまい」だ


     さらに、逓信病院の少し手前には、明治・大正時代の天才歌人カップル「与謝野鉄幹・晶子夫妻旧居跡」があります。鉄幹・晶子夫妻がこの地に転居してきたのは1915(大正4)年といいますから、先に触れた「明華女子歯科医学講習所」が発足する2年前、東京科学大学(旧東京医科歯科大学)歯学部が湯島キャンパスに引っ越してくる1928年の13年前、ということになります。


    日本歯科大学の学祖・中原市五郎の像が、日本歯科大学本館前で常に学生たちを見守っている


     そして、日本歯科大学の学祖・中原市五郎(1867/慶応3年~1941/昭和16年)は、1907(明治40)年に千代田区大手町で「共立歯科医学校(日本歯科大学のルーツ)」を立ち上げます。

     この共立歯科医学校が、後に日本歯科大学の一大拠点を形成する千代田区富士見町(現在地)へ移転し、同時に「日本歯科医学校」と改称したのは、1909(明治42)年のことです。

     これを期に日本歯科医学校は、東京歯科大学の前身「東京歯科医学校」とともに、日本における本格的な近代歯科医学教育を開始しますが、それは 先に触れた「東京女子歯科医学講習所(神田猿楽町)」の設立と同年の出来事でした。

     明治時代初期の西洋医学の全面的導入にはじまり、明治・大正期を通じて基盤整備された日本の医学・歯科医学の歩みは、さまざまな事象が縦糸や横糸になって、近代史全体の一翼を担いながら、複雑かつ壮大華麗な絨毯(歴史)を織り上げていきます。

     そのプロセスの一つの縮図(記憶の積み重ね)が、御茶ノ水・水道橋・飯田橋とその周辺エリアには着々と蓄積されてきたのです。 それを改めて体感する道行(散歩)は、さらにここからが本番、クライマックスとなります。(以下、次回に続く/文中敬称略)



    メイン画像説明


    お雇い外国人のジョサイア・コンドルが設計し、1891年に竣工したニコライ堂(神田駿河台)は、御茶ノ水界隈の医学校、大学などで医師・歯科医師を目指す学生たちの憩いの場だった


    筆者プロフィール


    未知草ニハチロー(股旅散歩家)

    日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
    裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。


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