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第10話/「専門学校から歯科大学へ~けん引者たちの歩みにみる歯科医学史~」(近代歯科・事始めを巡る散歩②)

    [中落合→お茶の水]旧東京医科歯科大学の学祖・島峰徹の記憶を訪ねる散歩

     今回の近・現代「歯科」こと始め散歩は、新宿区中落合4丁目の住宅街にある「新宿区立延寿東流庭園(えんじゅとおるていえん)」の訪問から始めました。

     百坪あまりの小さな庭園――パッと見には、誰かがよそに引っ越した後に家屋が取り壊され、残された門扉と塀だけに囲われた「庭の跡」みたいな佇まい(たたずまい)です。

     でも、大きな松の木がアーチをつくる門から中に入り、順路に導かれながら奥に進んでいくと、数秒後には別天地が現出します。

     庭奥の正面にはパーゴラ(日陰棚)があり、その下には御影石でしょうか、白い石の腰掛が三つ(二つは1人用、一つは2人用)があり、腰掛にすわると、目の前には小さな池。

     池は庭を縦断する小さな流れとつながっており、流れをたどっていくと、岩を静かにつたう人工の小さな滝に行き着きます。水はこの滝と池の間を人工的に循環する仕組みのようです。

     小さいながらも奥行きを感じさせるこの庭の名称、延寿東流庭園の東流(とおる)とは、この地にかつてあった家屋の主で、後の東京医科歯科大学歯学部(現東京科学大学歯学部)のルーツ「東京高等歯科医学校」(1928/昭和3年発足)の創設者にして初代校長(および教授、同付属医院初代院長)でもあった、島峰徹(しまみねとおる、1877/明治10年~1945/昭和20年)の雅号です。

     前回触れたように、日本の本格的な歯学教育は1906(明治39)年に制定された「公立私立歯科医学校指定規則」に基づき、1907(明治40)年に「東京歯科医学専門学校(後の東京歯科大学)」と「共立歯科医学校(後の日本歯科大学)」が誕生したのを契機に始まりました。さらにその後、1928(昭和3)年までの間に次々誕生し、第2次大戦後の学制改革で大学に発展していった「六つの伝統校(歯科医学専門学校)」が、今日も日本の歯科教育をけん引する存在となっています。

     「旧6歯科大学」と総称される六つの伝統校は、東京歯科大学、日本歯科大学、日本大学歯学部、大阪歯科大学、九州歯科大学、旧東京医科歯科大学歯学部(現東京科学大学)です。

     今回の散歩の主な目的地は、大阪歯科大学と九州歯科大学以外の4校、つまり東京にある東京歯科大学、日本歯科大学、日本大学歯学部、旧東京医科歯科大学歯学部(現東京科学大学)の4校周辺のエリアで、いずれもJR中央線・御茶ノ水駅、水道橋駅、飯田橋駅の周辺に立地しています。

     この隣り合った3駅を軸とするエリアは、近・現代「歯科医学」の歴史をたどる散歩コースとして非常に効率的です。さらに、隣接する神保町や市ヶ谷、神田、本郷などのエリアも合わせれば、歯科を含めた日本の近代医学史上、いや、日本の近代教育史上全体にとっても、非常に重要な物件が集中しているエリアといえます。


    旧目白文化村の瀟洒な住宅街の一角に立地する「延寿東流庭園」は、旧東京医科歯科大学の学祖・島峰徹の住居跡


     延寿東流庭園(島峰徹の子孫が旧居の敷地と整備費用を新宿区に寄贈、新宿区が整備し2006/平成18年に公開)はそのエリア外ですが、このあたりは大正時代から昭和初期にかけ「目白文化村」と呼ばれていた地域です。風雅を愛し、文化人としての側面もあわせ持つ各界の著名人たちが暮らしていました。


    門内に入ると瞬時に別天地のような趣が現出。
    この庭を歩きながら島峰徹は日本の歯科医学発展の構想を練ったことだろう


     島峰徹もその代表的な一人で、この庭園も「目白文化村の面影を残した和風庭園にしたい」という遺族の要望を踏まえ、整備されました。実際、シンプルな中にもキリッとした小世界を織りなす庭園(屋敷跡)は、死去するその日まで「東京医学歯学専門学校(旧東京高等歯科医学校が1944/昭和19年に改組)」の校長の職にあって、日本の歯科医学の発展に全精力を傾けた島峰徹の気高い精神を宿す「原風景」の一つといえるのかもしれません。

     他に誰もいない、小春日和の気持ち良い風の吹く小世界に後ろ髪を引かれつつも、今回の散歩の主要目的地の一つ「御茶ノ水」方面へと移動しました。


    近代教育の「聖地」湯島に移転した島峰徹の東京高等歯科医学校とその後の発展

    写真の茶色い建物が現在の歯学部と附属病院(東京科学大学)


     JR御茶ノ水駅(聖橋口)を出て、聖橋を渡りはじめるとすぐ、斜め左側前方に東京科学大学(旧東京医科歯科大学)キャンパスの威容が見えてきます。そして聖橋を渡り切り、橋の左側の階段を降りると東京科学大学のキャンパス入口方面に行くことができます。道路を渡って聖橋の右側の階段を降りれば「湯島聖堂」に導かれます。


    東京科学大学・御茶ノ水門の前に設置された「近代教育発祥の地碑」

    江戸幕府は「儒学」を基本理念とし、その祖・孔子を敬った。湯島聖堂・大成殿は孔子を祀った孔子廟の正殿だ


     東京科学大学方面に降りる階段の上には「近代教育発祥の地」の看板が、大学の御茶ノ水門前には同様の趣旨を記した石碑がそれぞれ設置され、石碑には次のように書かれています。

     

     [江戸時代、東京医科歯科大学と湯島聖堂を含むこの地には、「昌平坂学問所」がありました。/明治維新後は文部省が設置されるなど、日本の近代教育の原点となる施策が展開された場所です]

     島峰徹は1928(昭和3)年の創立に深く関わり、初代学長を務めた日本初の官立歯科医学校「東京高等歯科医学校」を、1930(昭和5)年にこの地に移転させます。

     そして死の前年にあたる1944(昭和19)年に医学科も設置し、名称を前述のように「東京医学歯学専門学校」へと改めました。

    丈高4.5m強の孔子像は1975年、台北市ライオンズ・クラブが湯島聖堂に寄贈。世界最大の銅製孔子像とされる


     歯科医学専門だった学校に医学科を増設したのです。現在、医学部を持つ国立大学が歯学部を併設している事例は11校ありますが、歯学部が医学部より先に設立されていたという事例は他にありません。

     前述のように、島峰徹は東京医学歯学専門学校発足の翌1945(昭和20)年2月に死去しています。そのため1946(昭和21)年に実施された学制改革に伴い、同校が「旧制東京医科歯科大学(1951/昭和26年に新制国立東京医科歯科大学に改組)」に、つまり大学に昇格するところまでは関わることができませんでした。

     しかし、医学のあらゆる科におけるパイオニアとなるはずだった明治時代前半期の東京大学および東京帝国大学が、ついに歯学部を設置することもなく、歯学教育をけん引できないまま挫折したのを尻目に、島峰徹は初めて官立(国立)の歯科医学校(東京高等歯科医学校)を設立。後に「歯学部と医学部を併設した初の国立大学」となる東京医科歯科大学誕生の基盤を構築したのです。

     まさに大変な功績ですが、島峰徹が最初に設立した東京高等歯科医学校の存在こそは、実は日本の近代医学史上、「歯科分野」がいかに国から不当な扱いを受けてきたかを知る、端的な手がかりとなる存在であるともいえます。

     歯学部を持つ国立大学は現在、1928(昭和3)年開校の東京高等歯科医学校をルーツとする東京科学大学(旧東京医科歯科大学)を始め、北海道大学(歯学部開設は1967/昭和42年)、東北大学(同1965/昭和40年)、新潟大学(同1965/昭和40年)、大阪大学(同1951/昭和26年)、岡山大学(同1979/昭和54年)、広島大学(同1965/昭和40年)、徳島大学(同1976/昭和51年)、九州大学(同1967/昭和42年)、長崎大学(同1979/昭和54年)、鹿児島大学(同1977/昭和52年)の計11校あります。

     旧東京医科歯科大学以外では、大阪大学歯学部が1951年に歯学部を設置し、東京医科歯科大学に次ぐ伝統を誇っています。それは大阪大学のルーツである府立大阪医科大学、そして前身の大阪帝国大学内に歯科学教室や歯学講座を昭和前半期から持っていた伝統を、大阪大学に移行した後の学部開設へと継承した成果です。

     学部開設は1951年ですが、国立に移管する以前の府立大阪医科大学時代に、最初に歯科学教室を設置したのは1926(大正15/昭和元年)と、島峰徹の東京高等歯科医学校の開校(1928年)に先んじていることも特筆されます。

     この大阪医科大学(現大阪大学)と同様の経緯を初期にたどりながらも、「対照的な結果」に終わったのが、東京帝国大学医科大学(現東京大学医学部、以下、東京帝国大学医学部)の「歯科学教室」でした。

     国立大学における日本初の歯学教育は、実は形式的には1903(明治36)年に設置された東京帝国大学医学部「歯科学教室」から始まった——とすることもできなくはありません。

     東京帝国大学「歯科学教室」が設置された1903年は、官立(国立)の歯科医学校のパイオニア、島峰徹校長ひきいる東京高等歯科医学校の開設(1928年)より25年前も前のことになります。日本初の歯科大学・東京歯科大学の前身「東京歯科医学専門学校」と日本歯科大学の前身「共立歯科医学校」が発足した1907(明治40)年よりもさらに4年前のことです。

     明治維新後の日本の学校教育は、近代日本の最高学府として設立された旧東京大学(後の帝国大学→東京帝国大学→現東京大学)をヒエラルキーの頂点とし、構想されました。医学教育も同様で、日本の大学医学部は、1897(明治30)年に京都帝国大学が設置され、翌1898(明治31)年に同医科大学(実質的な京都帝国大学医学部)が発足するまで、東京大学(当時の名称は正確には帝国大学、京都帝国大学発足に伴い東京帝国大学へと改称)しかありませんでした。


    医術開業試験の合格者(日本初の女性歯科医師・高橋コウも在学)を最も多く育てた「済生学舎(現日本医科大学の前身)」は順天堂大学の裏側、現「本郷給水所公苑」付近にあった


     もちろん、それだけでは近代国家の構築に必要な、近代西洋医学を修めた医師の養成は間に合わないので、医学を学ぶ民間の専門学校がたくさん生まれ、そこで学んだ人々は、本欄でも再三ご紹介してきた「医術開業試験」を受けました。

     西洋の歯科医学を修めた日本初の歯科医師・小幡英之助をはじめとする多くの歯科医師が、この医術開業試験を足掛かりに誕生していったことも、既にご紹介してきた通りです。


    大学における歯科医学教育の始まりを推進、未来への基礎を構築した二人のレジェンド

     島峰徹はこうした社会状況のもと、1905(明治38)年に東京帝国大学医科大学(東京帝国大学医学部の前身)を卒業し、翌1906(明治39)年に同大学解剖学教室に入室、「歯牙解剖ならびに組織学」を専攻します。さらに翌1907(明治40)年に私費留学生としてドイツのベルリン大学歯学科に入学、口腔外科・歯牙病理学(細菌学も含む)を学び、歯科医学への道に本格的に進むことになります。

     留学先での成果が認められ、1911(明治44)年に文部省から官費留学生の資格を与えられた後は、自身の歯科医学研究のさらなる深掘りとともに、欧米各国の歯科医学制度の調査・研究や、歯科医師の資格認定制度の調査・研究などを広範にわたり実施します。

     そして、1914(大正3)年、計7年間に及んだ留学生活を終えて帰国した後はすぐ「医術開業試験(歯科)」の試験委員に就任します。1916(大正5)年に「医術開業試験」が廃止された後は、新たな試験制度のもとに生まれた「歯科医師試験」の委員にも就任します。

     医術開業試験の廃止と同時に「歯科医師法」が改正された結果、それまでは許されていた非歯科医師の医師免許取得者による歯科治療は全面的に禁止されました。大学あるいはそれに準ずる歯科医学専門学校で歯科を専攻した上で歯科医師試験を受け、内務大臣に許可を与えられた者でないと歯科の看板を出すことも、充填・補綴・矯正などの歯科医療を実施することもできなくなったのです。

     そうした日本の歯科医学の歴史の流れの大きな転換点に、島峰徹が欧米各国で調査・研究してきた、最先端の「歯科医学制度」や歯科医師「資格認定制度」の知見が活かされていたのだろうことは、容易に推測できます。

     その証拠に、島峰徹は1914(大正3)年の帰国と同時に母校・東京帝国大学医科大学講師となり、医学博士号も授与されています。この年、東京帝国大学医学部では従来の「歯科学教室」を「歯科講座」に切り替えていますが、それが1916年に実施された歯科医師法改正に先んじた措置であることも、同様に推測できます。


    築地「国立がん研究センター中央病院」敷地内の「海軍軍医学校跡の碑」(右側、左は海軍兵学寮跡の碑)。帝大講師を辞した島峰徹はここで海軍の軍医を養成した


     ところが1919(大正8)年、島峰徹は日本の医科界の頂点ともいえる東京帝国大学講師の座を辞任。翌1920(大正9)年、海軍軍医(および1942年からは歯科医師も養成)を養成する「海軍軍医学校」教授に就任します。

     一方、島峰徹が講師を辞任した東京帝国大学「歯科講座(旧歯科学教室)」は、その後、正式な歯学部に発展することもなく、ついには雲散霧消してしまいます。

     それに付随して伝えられている「説」も冴えないものばかりで、例えば1903年の「歯科学教室」の出発点において重要な役割を担うべき担当教授が、実はくじ引きで決められていた、ともされています。歯科医学を専門に研究する人材も、後進を育てられるほどの知見を持った人材も、当時の東京帝国大学医科大学にはいなかったというのです(歯科を専門とする外国人講師もいなかった)。

     当時の医学教育の世界では「歯科」の仕事は職人仕事とする偏見が根強く、医術開業試験でその職人を輩出することは構わないものの、歯学教育は大学で行うほどのものではない、とする風潮が明治の医界にはあったとする「説」も流布されています。そのためもあって、東京帝国大学は歯学部設置に消極的だったというのです。

     それらの「説」の真偽の詳細は分かりません。しかし、当時の日本の医学関係者や官僚たちが「至高の大学」として崇めていたドイツ医学の最高学府・ベルリン大学の歯科学教室でも学び、欧米の最先端の歯科医学の発展ぶりや周辺事情をつぶさに調査・研究してきた島峰徹が、東京帝国大学の歯学講座に半ば見切りをつけざるを得なかった事情も分かるような気がします。

     実際、そうした思いを抱いていたのは島峰徹だけでなかったようです。島峰が東京高等歯科医学校を設立した後、東京帝国大学の歯科講座に在籍していた医局員たちも次々と職を辞し、多くの人材が島峰徹のもとに集まったとされています。


    東京科学大学に隣接する順天堂大学低層部のレトロな意匠の建物は、明治時代の旧順天堂医院本館を再現。お隣にあった島峰徹の東京高等歯科医学校もこんな雰囲気の建物だったのだろう


     何はともあれ、島峰徹はこうして、1928年に東京高等歯科医学校を設立して、欧米仕込みの高度な歯学教育を推進する一方、大学における歯学教育の必要性を生涯にわたって国に訴え続け、旧東京医科歯科大学創設への基盤を構築していくのです。


     日本における「大学の歯学教育」は、それまでの歯科医学専門学校の歴史をへて、前述のように1946(昭和21)年の学制改革によって始まります。旧6歯科大学と総称される東京歯科大学、日本歯科大学、日本大学歯学部、大阪歯科大学、九州歯科大学、旧東京医科歯科大学歯学部(現東京科学大学)が1946年から翌年にかけて次々と旧制大学となり、1949(昭和24)年には新制大学へと昇格します。

     先に述べた、東京医科歯科大学に次ぐ2番目の国立大学歯学部となった大阪大学歯学部は1952(昭和27)年の設置です。それ以後、1961(昭和36)年~1979(昭和54)年にかけて、新たに22校の国公私立の歯科大学・大学歯学部が誕生したことにより、現在の29校体制が確立するわけですが、前項の最後に書いたように、島峰徹は大学における歯学教育の必要性を先頭に立って訴え続けました。

     論文『戦時下の「教育審議会」と島峰徹校長の大学案を巡って/第1編高等教育審議会と医歯薬専門学校(1)』(金子譲、片倉恵男、高橋英子、阿部潤也、福田謙一、上田祥士、斎藤力、吉澤信夫:東京歯科大学「歯科学報」)によれば、1940年代からの戦時体制以前に、歯科界側からなされた「歯科大学および大学歯学部」の国への設置要請は、帝国大学以外の公立・私立大学の設置を認める勅令「大学令」が1918(大正14)に公布されて以後、計2回しか行われなかったそうです。

     1回目は1925(大正7)年に「日本連合歯科医師会(現日本歯科医師会)」の血脇守之助会長名で衆議院に上程された「歯科医師資格と歯科大学の件」です。2回目は、1939(昭和14)年開催の文部省「教育審議会」において東京高等歯科医学校・島峰徹校長が「歯科医学教育にも大学教育が必要」とする提言を行いました。

     血脇守之助はその当時、東京歯科大学の前身「東京歯科医学専門学校」の校長を務めており、島峰徹と同様、その生涯に多くの俊英、後継者を育てていきました。

     島峰徹は旧東京医科歯科大学が発足する前年の1945(昭和20)年に死去し、血脇守之助は旧東京歯科大学の発足翌年の1947(昭和22)年に死去します。

     歯科大学および大学歯学部の設置を、時のオピニオンリーダーとして最期まで、生命を削りながら強力にけん引した、まさに二人のレジェンドといえるでしょう。

    (以下、次回に続く/文中敬称略)



    メイン画像説明


    JR御茶ノ水駅・聖橋口を出て聖橋を渡れば、丘の斜面に展開する東京科学大学のキャンパスはすぐ目の前だ


    筆者プロフィール


    未知草ニハチロー(股旅散歩家)

    日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
    裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。


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