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第6話/「銀座・日本橋・浅草から始まる近代歯科第1世代の記憶」銀座・散歩編

日本人歯科医師第1号の修業の場は横浜外国人居留地

 本欄の連載第1回目・2回目では、日本の予防歯科のパイオニア「日吉歯科診療所」が立地する山形県酒田市を訪ねました。

 連載第3回目から5回目までは時代を150年ほどさかのぼり、現代の予防歯科に至るはるか以前、近代医学としての歯科のそもそもの出発の地、欧米(特にアメリカ人)の歯科医師たちによる「近代西洋歯科医学」移入の窓口となった《旧横浜外国人居留地跡》(現横浜市山下町・山手町)を《時空散歩》しました。

 連載第6回目の今回からは数回に分け、銀座・日本橋・浅草の各所に刻印されている、近代歯科の胎動期をけん引した「日本のキーパーソン第1世代」の《記憶の跡》を訪ねたいと思います。

 この一連の時空散歩の過程では、未病のうちに口腔の健康を保とうとする「予防の原型」のような「衛生思想」の芽生え、女性の歯科医師第1号の誕生、さらには日本における「歯科医学の教育機関」の胎動、欧米からの歯科器材・直輸入を初めて実現した痛快な人物の動向など、多彩な話題が付随して出てきます。


小幡英之助の歯科診療所のあった旧釆女町(現銀座5丁目)から晴海通り越しにみる歌舞伎座(現銀座4丁目/後ろのビルは歌舞伎座タワー)


 さて今回、最初に訪ねたのは、日本人歯科医師第1号として知られる小幡英之助の診療所があった「旧東京府京橋区采女町」の付近です。現在の東京都中央区銀座5丁目のはずれ、歌舞伎座から晴海通りを隔てて位置する東銀座駅周辺のエリアです。

 小幡英之助は幕末から明治時代初期にかけ、旧横浜外国人居留地に診療所を構えていた、セント・ジョージ・エリオット(フィラデルフィア歯科医学校/現ペンシルバニア大学歯学部卒業/連載3~5回目参照)に師事し、近代歯科の基本を学びました。

 さらに小幡英之助は、エリオットに弟子入りする以前に、西洋医学(特に外科医学)をやはり横浜で実地に学んでいました。その時の師の中には、現横浜市立大学医学部のルーツとして知られる横浜《十全病院》の院長、D.Bシモンズもいました。

 シモンズはキリスト教のアメリカ・オランダ改革派教会が日本に派遣した宣教医(宣教師兼医師)で、幕末・明治初期に日本の近代医学の基盤構築に貢献した恩人の1人といえる存在です。

 学校という形での正規の医学教育は受けていません。しかし、小幡英之助は当時最先端の西洋医学(特に外科)と歯科医学の臨床技術を、アメリカ人の現役医師から伝授されていたのです。

 明治政府が西洋医を急いで養成するべく1875(明治8)年に開始した「医術開業試験(管轄は内務省)」の第1回目に《歯科》で受験した際、小幡英之助は内務省・衛生局長の長与専斎や、日本初の医学博士として知られる三宅秀など、錚々たる試験委員たちによる口頭試問を優秀な成績でクリアしますが、それも当然のキャリアを積んでいました。

 日本人の口腔に生じた不具合はその当時、江戸時代以前から続く「口中医」たちが担っていました。現代の目からみれば医療とは名ばかり。歯痛が起これば漢方薬を飲み、う蝕や歯周病がひどくなれば基本的に抜歯するしかなく、抜歯を専門職とする「歯抜き師」や義歯づくりの職人「入歯師」が大活躍していました。

 医術開業試験の専攻科目にも、口中を専門に診る医師を指す「口中科」はありましたが、「歯科」はありませんでした。

 旧横浜外国人居留地でエリオットに師事し、最新の西洋歯科医術をマスターしていた小幡英之助が、理論も実技もあいまいな「口中科」ではなく、あくまでも欧米流の「歯科」での受験にこだわったのも当然で、小幡はそのことを内務省に直談判します。

 前述のように、その談判が時の内務省衛生局長・長与専斎に受け入れられ、小幡は「歯科」での受験生としても合格者としても第1号となりました(合格後の登録ナンバーは医籍第4号)。

 一方、小幡英之助と同様にエリオットに師事し、さらにはハラック・マーソン・パーキンス(ボストン歯科学校卒業)にも師事して、先端の西洋歯科医術をマスターしていたはずの佐治職は「口中科」で受験し、1877(明治10)年に合格。口中科の医師として登録されています(医籍第69号/歯科の専門医としては小幡に次ぐ第2号)。

 恐らく両者が合格後に実施した歯科医療は、基本的に同質のものだったでしょう。実際、東京で開業した小幡英之助(出身は現大分県中津市)と大阪で開業した佐治職(現兵庫県三田市出身)は、やがて関東と関西の近代歯科界をけん引する両輪、重要人物になっていきます。

 1875年から開始された初期の医術開業試験は、この「歯科と口中科」の境目のあいまいさでも分かる通り、随所に混乱や矛盾を抱えていました。近代化がはじまったばかりで、とにかく専攻科目の別を超えて「西洋医の養成」を急いでいた状況下では、仕方のないことだったのかもしれません。


 そんななか、各府県で別々に実施されていた医術開業試験は1883(明治16)年以降、国(内務省)が統一して実施するなど各種の制度改革が行われ、歯科と口中科も正式に「歯科」に統一されます。

 同時にそれまで医師の範疇に入れられていた歯科医師は、この制度改革によって分離。前述のように、小幡英之助も佐治職も「医籍」に登録されていましたが、1883年以降の「歯科」合格者は「歯科医籍」に登録されるようになります。

 これらの改革をキッカケに、一般医療を担う医師と口腔の健康を担う歯科医師を区別する考え方が次第に主流となっていき、10年後の1893(明治26)年には、小幡英之助などを発起人に「東京歯科医会」(日本歯科医師会の遠祖)が結成されます。

 また、医術開業試験の制度改革が行われた1883年の時点で、医術開業試験の合格者数は累計で約3300名いました。そのうち歯科で合格していたのは29名、口中科で合格していたのは2名だけでした。つまり、診療所を構え、西洋歯科の医療技術を提供できる資格を持つ日本人の歯科医師は、日本全国で総計31名しかいませんでした。当然、治療費はかなり高く、一般庶民には西洋式の歯科医院は高嶺の花。大部分の人は、歯科医院での治療を受けられず、何もしないで我慢するか、漢方薬を飲んだり近世以前から続いていた「歯抜き師や入歯師たち」の世話になるしかなかったのです。

 そうした状況を脱して、庶民も歯科医院で治療を受けることが一般化するのは、明治40年代以降、すなわち東京歯科医学専門学校(明治40年設置認可/現東京歯科大学)や日本歯科医学専門学校(明治42年設置認可/現日本歯科大学)などが設立され、医術開業試験の歯科合格者数が急増するようになってから後のことです。 [※1883/明治明治16年の段階で31名しかいなかった歯科医師は、1911/明治44年の段階で1241名。1925/大正14年の段階で1万1392名に急増します]


現代の銀座5丁目付近に開業した小幡英之助の歯科診療所

 ――時間の針を、少し先に進め過ぎました。小幡英之助が開業した明治初期に話を戻します。

 医術開業試験に合格した小幡英之助は、先に述べたように、合格直後の1875(明治8)年夏、東京府京橋区采女町26番地に史上初となる「日本人歯科医師が治療を行う歯科医院」を開業します。

 開業の際に、小幡英之助が東京日日新聞(1875年10月12日~17日号)に掲載した、次のような広告の文面が今に伝わっています(※日本歯科医師会公式サイト「テーマパーク8020/明治時代の歯科医学史」より、微調整して抜粋)。

 [口中療治/小生こと、4年前より横浜にて米国歯科医エリオット先生にしたがい、歯科の一切の業を学び齲歯(むし歯)を抜き金属粉をもって欠歯を埋め、入歯を植え、懸よう垂(口蓋垂/のどちんこ)を補い、汚歯を磨き、歯並を直すなどのことをもって、今般開業の免許を得、東京采女町26番地、隈川宗悦方へ同居いたし、もっぱら歯科医術を施しますので、ぜひお立ち寄りください]

 ちなみに、隈川宗悦とは、現慈恵医科大学のルーツに当たる成医会の創設メンバーの1人です。そして、この広告からは、英之助の歯科医院が当初、齲蝕(むし歯)治療、入歯、歯垢除去、歯列矯正などを主な治療内容として宣伝していたことが分かります。

 歯が痛くなったり歯周病に悩まされたら「歯抜き師」や「入歯師」に頼ることが主流だった当時の庶民感覚からすれば、画期的な治療内容だったといえます(実際に治療を受けられたのは富裕層中心だったとしても)。


 さて、その当時(1875/明治8年)の銀座界隈は、1872(明治5)年の「銀座大火」で江戸時代から続いていた街並みが焼失。耐火仕様のレンガ造りの街並みを構築しようと、国を挙げた復興計画の途上にありました。

 大火の翌年の1873(明治6)年には銀座通りのレンガ街はほぼ半分が完成。1877(明治10)年には、全街区の復興工事が完成していたといいますから、ものすごいスピードです。

 また、小幡英之助が歯科医院を開設した采女町の周辺(現銀座5丁目・6丁目)は、明治維新当時は尾張町とも呼ばれ、東銀座のあたりは木挽町とも呼ばれていました。銀座通りに店舗を構えていた有力商店のうち、かなりの数の店舗が銀座通りの復興工事中は木挽町や采女町に一時移転していたといいますから、銀座のメインストリートに準じるにぎわいを見せていたはずです。

 小幡英之助がそこを開業の地に選んだ背景には、日本を代表する繁華街の銀座には富裕層が集まり、患者の獲得にも有利というマーケティング的感覚もあったことでしょう。同時に、当時の銀座には呉服商や料理屋など旧来の老舗のほか、新聞社をはじめとする新時代の業態が集まる「最先端の街」でもありました。ヨコハマ仕込みの西洋式歯科医院を開業するのに、最もふさわしい場所との判断もあったのかもしれません。


資生堂(中央レンガ色のビル)は小幡英之助の診療所より3年早い1872(明治5)年、銀座7丁目に誕生した


 例えば、小幡英之助が診療所を開設する3年前の1872(明治5)年9月には、現在の銀座7丁目に「資生堂薬局」(化粧品メーカーになる以前の資生堂は調剤薬局だった)が設立されています。前述の銀座大火は同年4月に発生していますから、銀座が焼失してから約半年後には、資生堂薬局が開業していることになります。


 横浜(1872/明治5年)に続き、銀座通りにガス灯が初めて灯るのは1874(明治7)年のこと。電灯(白熱灯以前のアーク灯)が全国で初めて銀座に灯ったのは1882(明治15)年のことでした。

 現代の銀座のシンボル・和光ビルの前身「服部時計店」は、1881(明治14)年に木挽町で創業された後、1895(明治28)年に現在地(当時は朝野新聞のビルの跡地)に移転しています。

1882(明治15)年、銀座通り(銀座2丁目)に日本初の電灯(電気街灯/アーク灯)が建てられた(写真のアーク灯は2016年に復元されたもの)



旧銀座松屋(銀座3丁目/昨年閉店)の敷地にはかつて、岸田吟香が1877(明治10)年に設立した薬局・楽善堂があり、目薬・精錡水が大評判だった


 また現代の銀座3丁目には、横浜外国人居留地の名医・ヘボンが処方した目薬「精錡水」を売る薬局・楽善堂(創業者は高名なジャーナリストの岸田吟香)が1877(明治10)年に開店し、大層な評判を呼びました。さらに、銀座ライオンの前身、恵比寿ビアホールができたのは1899(明治32)年のことです。


小幡の人脈から「歯科衛生思想」「日本初の女性歯科医」が派生

 日本人歯科医師第1号となり、銀座通りと地続きの釆女町に診療所を開設した小幡英之助には、医術開業試験の合格および開業を目指す日本人の弟子たちが次々に押し掛けたとされます。

 中でも有名な弟子は伊澤道盛でした。1893(明治26)年に東京歯科医会(前述のように発起人の1人は小幡英之助)の創立会長にもなる伊澤道盛は、幕末期から「口中医」として活動していました。しかし、そこで一念発起し、西洋式の歯科医を目指して小幡に弟子入り。約3年後の1878(明治11)年の医術開業試験に「歯科」で合格しているのですから、元々の資質が優れていたのでしょう。

 先ほど、口中医があまり緻密でない診療をしていたかのような書き方をしましたが、伊澤道盛のような優れた人も少なからずいて、患者からは信頼されていたのでしょうね(前言訂正します!!)。


小幡英之助の弟子・伊澤道盛は1880(明治13)年、銀座・数寄屋橋付近(元数寄屋町)に診療所を設立(写真左側の石碑は今はない数寄屋橋の記念碑)

数寄屋橋の真裏に広がる数寄屋橋公園の木陰は今、銀座を訪れる人々の憩いの場になっている


 伊澤道盛はさらに、医術開業試験に合格した翌1879(明治12)年に、師である小幡英之助の診療所からも至近の京橋区尾張町に歯科診療所を開設。さらに翌1880(明治13)年には、少し離れた京橋区元数寄屋町2丁目(現数寄屋橋周辺エリア)に移転します。

 そして1881(明治14)年には、大衆向けの歯科衛生に関する日本初の啓蒙書「固齢草-名・歯牙養生譚」を出版。前出の東京歯科医会の創設から3年後の1896(明治29)年に死去しますが、「固齢草-名・歯牙養生譚」の出版でも発揮された、歯科に関する衛生思想の普及活動には、とりわけ晩年まで情熱を注ぎます。

 具体的には「歯科衛生の基礎は子育ての主役である母親に対する教育が最重要」とする考えを基に、みずからが講師となって、いずれ母親になる若い女性を対象とする歯科衛生講習会を、ほぼ毎週のように実施したとされています。

 伊澤道盛のこうした活動こそは、冒頭にも書いた「予防の原型」のような「口腔衛生思想」の芽生え――と、いえるのではないでしょうか。現代の予防歯科では、子どもの頃からの歯科衛生に関する教育が最重要視されますが、伊澤道盛の「いずれ母親となる若い女性への啓蒙」という考え方は、現代の予防歯科の基本理念にも自然につながってくるDNAを感じます。

 そして、その「根っこの部分」の何割かは、師である小幡英之助につながるものでしょうし、さらには師の師であり、横浜外国人居留地で開業していたエリオットにもつながっていることでしょう。

 また、伊澤道盛の養子・伊澤信平は、東京大学医学部やハーバード大学医学部で医学を学んだ後に、父・道盛の跡を継ぐべくハーバード大学デンタルスクールで学位を取得したという超逸材で、後に日本歯科医学会の会長にも就任します。

 そして、伊澤道盛の後継者・伊澤信平は、日本人の女性歯科医第1号となる高橋コウの師匠ともなるのですが、その詳細は次回「日本橋・散歩編」に譲りたいと思います。



メイン画像説明


現銀座・和光の敷地にはかつて、小幡英之助の診療所が釆女町に誕生する前年の1874(明治7)年に創刊された朝野新聞社の社屋があった


筆者プロフィール


未知草ニハチロー(股旅散歩家)

日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。