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第5話/「横浜外国人居留地跡と周辺・散歩」編㊦

幕末・明治初期の横浜で開業!! 外国人歯科医たちの足跡Ⅱ

 前回は、幕末から明治時代初期に開港地・横浜(現横浜市中区山下町一帯にあった外国人居留地)で開業した、外国人歯科医師たちの足跡を訪ねました。

 具体的には、彼らの診療所跡が今どのような状態になっているのか。外国人居留地時代の地図と現代地図とを見比べながら、ひたすら歩きました。今回はその続きです。

 診療所跡巡りの主要なガイド資料は、前回に引き続き、《歯の博物館・横浜》館長で日本歯科大学生命歯学部・昭和大学歯学部客員教授でもある大野粛英氏の論文『明治期における歯科治療の変遷』です。『明治期における歯科治療の変遷』によれば、幕末・明治初期の横浜で開業した外国人歯科医師たちは、1865年に初来日のイーストレーキ(W.Cイーストレーキ)、1866年来日のバーリンガム(J.S.バーリンガム)とレスノー(J.R.レスノー)、1867年来日のウィン、1869年来日のアレキサンドル、1870年来日のエリオット(S.G.エリオット)およびスティーブンス、1875年来日のパーキンス(H.M.パーキンス)など、総計10人以上の歯科医師たちです。

 このうち、日本への近代歯科技術の移植という意味で、特に大きな功績があったのは、前々回にご紹介したイーストレーキ、エリオット、パーキンスの3人(いずれも米国人)です。

 前回まず訪ねたのも、イーストレーキの診療所跡でした。現在は瀟洒なマンションが建つ横浜市中区山下町108(外国人居留地108番)で、この診療所は後にウィンも使っています。

 次に訪ねたのは、マンション(ライオンズステージ山下公園/中区山下町86)とホテルエスカル(中区山下町84)が現在建ち、地図上からは地番が消えてしまっている旧横浜外国人居留地85番で、レスノーの歯科診療所があった場所です。

 さらに、今は神奈川芸術劇場(NHK横浜放送局)の駐車場になっている中区山下町75(旧・外国人居留地75番)。パーキンスとエリオットが相次いで開業(同じ診療所を活用)した場所です。神奈川県芸術劇場の対面にある神奈川自治会館(中区山下町57/旧外国人居留地57番)には、エリオットのもう一つの診療所がありました。

 前回訪ねたのはこの4か所。ここからは、幕末・明治初期に横浜で開業した外国人歯科医師たちの《診療所跡巡り》パートⅡに入りますが、前回、記事中で触れるのを忘れていた診療所跡がありましたので、まずはその紹介をさせてください。

 外国人歯科医師たちなど、横浜外国人居留地に暮らした西洋人たちの心の拠り所として建設された「旧横浜天主堂」跡に建つ記念碑(横浜外国人居留地80番/現中区山下町80)を、前回訪ねました。横浜天主堂はイーストレーキが初来日(1865年)する3年前、1862(文久2)年にこの地に建設されましたが、1906(明治39)年に山手の外国人居留地に移転。現在のカトリック山手教会(中区山手町44)のはじまりとなりました。


中華街の案内所《チャイナタウン80HALL》(山下町80)の周辺は、外国人居留地時代から賑わっていた


 前回触れるのを忘れていた診療所跡というのは、旧横浜天主堂跡と同じ外国人居留地80番にありました。さまざまな資料を突き合わせると、場所的には天主堂跡の裏手(現在は中華街の案内所《チャイナタウン80HALL》/施設名の80は中区山下町80を意味)が建っている場所の周辺と考えられます。

 中華街の朝陽門(東門)が目の前にあるこのあたりは、外国商人やその他の外国人居住者たちの生活に必要なさまざまな商店(薬局、雑貨店など)が並び、いつも賑わっていたとされます。レスノーは前出の外国人居留地85番の診療所だけでなく、外国人居留地80番でも開業していたのです。


外国人居留地の栄枯盛衰と外国人歯科医師たちの足跡の関係

 さて、ここからが今回の探訪になります。


中華街入口に最も近い「みなとみらい線・元町中華街駅」の出口。ドトールはかっこうの待ち合わせ場所だ(山下町60-1)


 中華街・朝陽門前(東門)の交差点から山下公園(港側)方面に向かって直進すると、一つ目の交差点右側の角に「みなとみらい線・元町中華街駅」への入口と、ドトール山下町店が1F部分に組み込まれた高層マンション(プライマリーナ山下公園グレーシアタワー)が現れます。

 この高層マンションの地番は中区山下町60-1。マンションの下は旧横浜外国人居留地60番で、かつてスティーブンスの歯科診療所がありました。


横浜のランドマーク「ホテルニューグランド」の土地には明治初期「フランス海軍病院」が建っていた


 そこから「みなとみらい線・元町中華街駅」への入口、ドトール山下町店を横目に見ながら、山下公園方面へと進むと、一つ目の交差点右側に《ホテルニューグランド》(中区山下町10)の威容が現れます。

 ホテルニューグランドは1926(大正15)年12月開業の老舗ホテル。それ以後、山下町のランドマークとして推移してきました。第2次大戦後にはGHQに接収され、本部の一つとして使われたことでも有名。2年後(2026年)には開業100周年を迎えます。したがって、ホテルニューグランドと横浜外国人居留地との直接的なつながりはありません。しかし、ホテルニューグランド本館の敷地部分は、横浜外国人居留地時代にはフランス海軍病院が建っていました。

 幕末・明治初期の横浜外国人居留地には、フランス海軍病院だけでなく、イギリス海軍病院(現中区山手町115)やオランダ病院などもありました。フランス海軍とイギリス海軍は、1863(文久三)年に発生した《生麦事件》で、イギリス人商館員などが薩摩藩士に斬殺された事件を契機に、横浜外国人居留地で暮らす自国民を保護するという名目で駐屯しはじめます。

 その後すぐ建設された英仏の海軍病院は、自国民や自国の兵士たちのための病院で、まさに外国人居留地ならではの病院。それらの病院に勤務する医師たちの中には、イーストレーキ、エリオット、パーキンスなどの歯科医師たちと同様、後に日本の西洋医学の発展や興隆に貢献した人々もありますが、それはまた別の話です。


 話を診療所跡巡りに戻しましょう。

 フランス海軍病院のあった場所に本館部分が建つ現ホテルニューグランド(中区山下町10)は、その後、拡張を続け、隣接地(中区山下町11)にも賃貸ビル建て、一部をアネックス(別館・グランドアネックス水町)として活用しています。


イーストレーキとウィンが共同で開いていた歯科診療所がここにあった(山下町11/グランドアネックス水町)

マリンタワーの建つ土地(山下町14)には外国人居留地時代、医薬品を扱う外国商館《ハルトリ商会》があった


 このグランドアネックス水町の地番(中区山下町11)こそは、横浜外国人居留地11番を継承するもの。イーストレーキと盟友のウィンが、ここで一緒に歯科診療所を開いていたことがあります。

 そこからさらに、山下公園側に面した山下公園通り沿いではなく、1本裏側の静かな路地を山手方面(港の見える丘公園)に向かって歩くとすぐ、左側に横浜マリンタワー(中区山下町14)および旧ホテルメルパルク横浜(ホテル機能は2023年末で閉鎖/中区山下町16)が並ぶ一角に出ます。


歯科診療所を何度も移転したウィンの人物像は謎も、外国人歯科医師として横浜に確かな足跡を遺した(山下町32/神奈川県横浜合同庁舎)


 次の訪問地は旧ホテルメルパルク横浜より路地1本を挟んで、中華街側の角地に建つ「神奈川県横浜合同庁舎」(中区山下町32)です。ここの旧地番・横浜外国人居留地32番には、イーストレーキの盟友・ウィンが開いた歯科診療所がありました。

 このように幕末・明治初期の開港地・横浜で歯科診療所を開業した歯科医師たちの多くは、外国人居留地の発展とともに、次々と診療所を移転しながら、外国人居留地に暮らす人々の歯科診療を実施しました。より賑わいのある場所、患者さんたちの通院により便利な場所などを、街の発展とともに求め、移転を繰り返したのかもしれません。

 診療の対象は当初、外国人居留地に暮らす人々でしたが、外国人居留地を訪れる日本の商人や各界の要人たち、さらには外国商館で働く日本人たちなどとの交流を経て、後にご紹介するように、外国人歯科医師たちは、日本人の患者も診るようになっていきます。


 その間、1862年頃から現山下町を中心に建設が進んだ横浜外国人居留地は、1867年には山手町にも増設され、それ以後、山下町の居留地は商業エリア、山手町の居留地は居住エリアというふうに、おおまかな区分がなされていきます。

 横浜外国人居留地の歴史は、正式には1877(明治10)年までですが、その後も、20世紀が始まる直前の1899年に、居留地における行政権の日本政府への返還が正式に実施されるまでは、居留地時代の「時間」がほぼそのまま、街全体をおおっていたようです。

山手の外国人墓地には日本の近代化に貢献した外国人が多数眠る。知られざる外国人歯科医師の墓があってもおかしくない


 さらに、居留地制度がなくなった後も、外国人居留地で商館を経営したり暮らしたりしていた人々には永代借地権が一種の特権として維持され、第2次大戦がはじまった直後の1942(昭和17)年に、それらの特権は解消されました。

 その後、居留地時代の面影は時代とともに薄れていきますが、恐らく外国人居留地時代以上に、紆余曲折をへながらも、当時の雰囲気を残しながら賑わい続けてきたのは中華街だけでしょう(中華街も近年はずいぶん入れ替わりが激しくなっていますが)。


現在の日本大通りのエリアは外国人居留地に隣接しており、外国商館と医薬品の取引のある日本の商人もたくさん店を構えた

外国人居留地91番(山下町91)にあった生糸を扱う外国商館《デローロ商会》跡の塀の一部


 西洋の貿易商社や商店街などは、これまでたどった歯科診療所跡の現状を見れば分かるように、昔日の面影はほとんどありません。その代わり、ところどころに残る外国人居留地時代の遺構や、居留地時代から培われてきた街の雰囲気を《意匠》としてほどこしたレトロなデザインのビルディング、ホテル、飲食店などの醸し出すエキゾチックな雰囲気は、旧居留地時代の横浜のテイスト(記憶)を今に伝え、訪問者を魅了し続けています。


横浜外国人居留地で行われていた先端の歯科治療と日本人の患者たち

 今回の診療所跡巡りでも、散歩のガイドとして大変お世話になった論文『明治期における歯科治療の変遷』の著者・大野粛英さん(《歯の博物館・横浜》館長)には、日本人の《歯》に対する関わり方の歴史を、さまざまなエピソードと共に克明に記した『歯』(法政大学出版局)という素晴らしい著書もあります。


開港時代の横浜の歴史を知るのには不可欠の知の宝庫「横浜開港資料館」


 横浜における外国人居留地時代の歯科医療に関しては、横浜市が運営する《横浜開港資料館》と神奈川県歯科医師会が運営する《歯の博物館・横浜》の所蔵資料を抜きには語れません。

 とりわけ、幕末・明治時代初期に西洋の近代歯科医療の技術が日本に導入される窓口となった横浜外国人居留地における歯科治療の内容に関しては、《歯の博物館・横浜》と《横浜開港資料館》にも所蔵されている、当時の横浜で発行されていた英字新聞などの「外国人歯科医の広告」から類推できます。

 たとえば、前出のバーリンガムの診療所の広告(デイリー・ジャパン・ヘラルド紙に掲載)には「金床義歯、ゴム床義歯、クラスプ付局部義歯、吸着腔、金箔、銀(アマルガム)、白金箔充填――などの歯科材料に関する情報が並び、「神経が露出していても抜髄・根管充填を行い抜歯には至らない」とあり、無痛の治療や抜歯、慢性疾患(※歯周病!?)などの治療法についても書かれています(『明治期における歯科治療の変遷』より抜粋)。

 これらの治療法や歯科材料はその当時、「アメリカでも最先端の歯科技術」(大野粛英『歯』より)だったそうで、歯科材料は恐らく、西洋医薬を主要に輸入していた横浜の外国商館から仕入れていたはずです。また、前出のレスノーは『海外新聞』(横浜で発行されていた日本語の新聞)に、自らの歯科診療所がどのような治療(特に義歯)を行うのかについて、以下のように、日本人向けに懇切な説明(原文ママ)を行っています。

 「義歯の人工歯を、動物の骨、象牙、蝋石ではなく、ポーセレン(※陶材)で、金床、ゴム床の義歯を作ります。耐久性がよく、色や艶も天然の歯のようです」(大野粛英『歯』より)

 この広告からは逆に、当時の日本の歯科治療において、義歯を作る際には「動物の骨、象牙、蝋石など」が多用されていたことが分かりますが、外国人歯科医師たちによる治療費は、かなり高かったようです。


イーストレーキが横浜で最後に開業した居留地160番は横浜市中区土木事務所前(レンガの土管は居留地時代製/横浜初の下水管)


 高い治療費を支払える層は限られていますが、たとえば慶應義塾の創始者・福沢諭吉は晩年のイーストレーキから治療を受けていました(福沢諭吉はイーストレーキの庇護者でもあった)。幕末の長州藩をけん引した木戸孝允は、エリオットに歯周病治療を受けていたとされます。

 それはともかく、外国人歯科医師たちの前出の広告の文面を子細に見ると、予防を意識した「うたい文句」は見られず、入れ歯や無痛治療についての意識の強さが見てとれます。

 当時の横浜で行われていた歯科治療は、歯科医療の先進地・アメリカに極めて近い水準にあったことが、現在、さまざまな研究から明らかにされつつありますが、それらの最先端技術の多くは、まだ予防以前の「治療」に傾注されていたことが分かります。

 たとえば先ほど、明治維新から約30年後の1899年に、外国人居留地における行政権が日本政府に正式返還されたと書きました。本連載の第1回目でご紹介したように、日本における予防歯科のパイオニアである「日吉歯科診療所」が山形県酒田市で「予防歯科」の看板を上げたのは1980年のことでした。1980年という年は、制度上の外国人居留地が消滅した1899年から数えて81年後、日本に初めて西洋の近代歯科技術を導入したイーストレーキの初来日(1865年)から数えると115年目に当たります。

 その間の時間が「長いのか短いのか」は、一概に言えないでしょう。しかし、何はともあれ、これまで横浜の旧外国人居留地跡を歩きながら、日本における西洋歯科技術の黎明期の記憶の一部(外国人歯科医師たちの診療所跡)を、ざっと巡ってきたプロセスで強く感じたのは、今日の歯科医療の到達点ともいうべき予防歯科への日本における第一歩(準備)も、西洋近代歯科の窓口となった横浜が、やはり出発点となっているはずだという想いでした。

 そして前々回にも触れたように、日本の予防歯科のパイオニアである日吉歯科診療所を、熊谷崇ドクターが若き日に最初に立ち上げた場所が、横浜市港北区日吉であったことも、改めて思い出されてくるのでした。



メイン画像説明


《みなとみらい地区》は近代初期に世界への窓口役を果たした横浜港の精神を継承する「横浜の未来への窓口」だ


筆者プロフィール


未知草ニハチロー(股旅散歩家)

日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。