第2話/「酒田市・日和山周辺・散歩」編㊦
日吉歯科診療所(酒田市)が担う予防歯科のHUB港的役割
前回の本欄では、19世紀半ばのアメリカ合衆国で芽生えた近代歯科医療の二つの流れ、すなわち「予防」と「治療」の概念が、それから約1世紀が経過した1970年代前半のスウェーデンで、国家戦略としての「予防歯科」の理念へと「統合」され、結実化していった経緯に触れました。
そして、その「成果」が1980年代初頭に導入されて以来、40数年間のプロセスを通じて、予防歯科は紆余曲折を経ながら、日本で独自の進化を遂げていったこと。その一大拠点が、山形県酒田市の「日吉歯科診療所(1980年10月開業/熊谷崇院長)」であること。日吉歯科診療所はみずからの予防歯科診療(地域医療)をけん引するだけでなく、国内外で予防歯科を推進する歯科医師や歯科衛生士たちとの交流拠点の役割を果たしてきたことなどについても、ざっとご紹介しました。
1980年の開業時から「酒田市民の口腔内の健康状態を世界一にする」という理念を掲げ、予防よりも治療を重視しがちな周囲の風潮や無理解にあらがい、不退転の姿勢で「継続的かつ能動的なメンテナンスを主体とする予防歯科医療」を推進していった日吉歯科診療所。その取り組みを約20年間続けた21世紀初頭の段階で、揺るぎない成果を世に示し、地域の人々や歯科界からの「見る目」を一変させます。
それは日吉歯科診療所が手掛けた受診者たちにおける「12歳時の永久歯に1本のう蝕(むし歯)もないカリエスフリー率90%以上」「20歳成人のカリエスフリー率90%以上と歯周病のない状態」の実現、さらには「70歳の平均欠損歯数5本以下」の達成など、従来の受身的な治療中心の歯科医療では「あり得ない成果」の数々でした。
かくして日吉歯科診療所は、今や絶えず40~50名の予防歯科をベースとした総合診療医、小児歯科、矯正歯科、補綴、歯周病、口腔ケアなどのスペシャリスト(歯科医師、歯科衛生士、その他のメディカルスタッフなど)が、診療を求めて庄内地域から連日訪れる、多くの受診者たちへの対処を行う日本最大級の「オーラルヘルスセンター」の役割を担うようになっています。
こうした成果は、国内の歯科界はもちろん、日吉歯科診療所・熊谷崇院長がかつて教えを請うた「予防歯科大国」スウェーデンをはじめとする歯科医療先進国の人々の関心をも呼び起こし、前述のように日吉歯科診療所を、国内外で予防歯科を推進する歯科医師や歯科衛生士たちの交流拠点へ押し上げる要因となっています。
日吉歯科診療所が果たしている「予防歯科の交流拠点」としての存在感は、たとえばネットで「日吉歯科診療所・研修・セミナー」などのキーワードで検索してみれば、一般の方たちにも、たちどころに納得されることでしょう。
「オーラルフィジシャン育成セミナー」「若い歯科医師のためのオーラルフィジシャンセミナー」「歯科医師や歯科衛生士の卒後研修」「患者さん向けセミナー」「SATオーラルフィジシャン・チームミーティング」など、日吉歯科診療所および熊谷崇院長が主宰する歯科医師、歯科衛生士向けの各種セミナーに関する開催告知や、参加した人々のポジティブな感想などに、すぐ出遭うことができます。(※以上の各種取り組みの具体的な内容については、本連載の中でも追い追いご紹介していきます)
「オーラルフィジシャン・チームミーティング2018」で講演する熊谷崇・日吉歯科診療所院長
たとえば「オーラルフィジシャン・チームミーティング」には、単独で参加するケースもあるようですが、5人、10人単位の医師および医院スタッフ全員が参加することも珍しくない様子がうかがえます。その「静かな興奮に満ちた感想」などを読むと、特に発展途上にある全国の予防歯科医院にとって、日吉歯科診療所が主宰するセミナーに参加することが「世界標準の予防歯科を知る重要な体験」と捉えられていることも、よく分かるのです。
日吉歯科診療所のそうした在り方は、前回も書いたように、酒田湊と呼ばれていた中世から近代はじめまでの時代の酒田港が結果的に果たしていた「HUB港(貨物を積み替え、別の目的地へと輸送する中継拠点港)」としての在り方を、まさに想起させます。
北前船の寄港地・酒田湊から入ってくる「ヒト(人)・モノ(物資)・コト(情報/文化など)」の交流を基盤に、文化的にも経済的にも栄えていった酒田の地――。
そこに立地する現代の日吉歯科診療所には、酒田市民だけでなく、国内外の診療を求める人々、予防歯科の研鑽に意欲的な歯科医師や歯科衛生士などが集い、技術的交流や情報交換の実践などを通じて予防歯科界のHUB港的な「場」を形成しているのです。
継続的メンテナンスを基盤とする予防歯科と松尾芭蕉の関係!?
文化的にも経済的にも豊かな江戸時代の酒田には、松尾芭蕉や与謝蕪村など、名だたる文人墨客が次々に訪れた(日和山・松尾芭蕉像)
日吉歯科診療所の歩んできたそんな歴史を踏まえつつ、日和山周辺をさらに散歩してみましょう。
日和山の山頂付近、酒田港を一望できる場所には、前回ご紹介したように、北前船の航路を開拓した河村瑞賢の、まるで潮見(海の天候・波等の観察)をしているかのような位置取りのブロンズ像が設置されています。
さらに日和山の中腹には、旅姿をした俳聖・松尾芭蕉のブロンズ像と句碑が設置されています。芭蕉は『奥の細道』の旅の途上で酒田に立ち寄り、俳諧の弟子である医師の家に滞在し、やはり有力な弟子である当地の商人の邸宅などで盛んに句会を開きました。
『奥の細道』の行程において、現在の山形県地方に芭蕉は約40日間滞在したとされています。そのうちの9泊が酒田での滞在でした。芭蕉が酒田を訪れた1689(元禄2)年は、実は河村瑞賢が秋田以北にまで及ぶ初期・北前船の航路を開拓した1670年代前半から数えて、すぐの時期に当たります。
北前船の安定的な航路が開かれたことにより、酒田の街なかには史上有名な「本間家」をはじめ、幾多の豪商が軒をつらねていたことでしょう。当時のそうした雰囲気は『奥の細道』にも描かれている、芭蕉を迎え入れた酒田の人々の鷹揚で華やいだ様子などからも十分に伝わってきます。
さて、その芭蕉像から日和山の坂道を10数分ほども下ったあたりが、日吉歯科診療所の立地する酒田市日吉町2丁目となります。この日吉町という地名、1965(昭和40)年に誕生したものですが、周辺一帯はそれ以前「秋田町」とか「伝馬町」などと呼ばれていたそうです。
河口部の最上川はまるで海のような風格がただよう
日吉町は酒田と上越(新潟県方面)地方、秋田地方、山形県内陸部などと結ぶ、陸路における物流の大動脈「酒田街道」や「秋田街道」などとも近接しており、かつては周辺一帯が現代のトラックに相当する駅馬(伝馬)が置かれた宿場町であったことを、それらの地名は物語っています。
松尾芭蕉をはじめとする江戸時代の外来者は、そうした街道を活用する者もあり、酒田湊から酒田に入る者もあり、あるいは米沢の山間部を水源に庄内地方を縦断して河口部の酒田に至る「最上川」の水運を利用したりする者もありました。
交通の要衝であることを基盤に構築された、酒田のこうした人文地理的に優れた環境は、現代の予防歯科の世界で「HUB港的な役割を担う日吉歯科診療所」を語る際にも、非常にシンボリックかつ示唆的であり、暗喩的な「装置」とも言えるのではないでしょうか。
そのような意味合いからも、『奥の細道』の旅で酒田を満喫した松尾芭蕉の後世の弟子たちが、芭蕉俳句の基本理念として掲げることになる《不易流行》という言葉が、改めて思い出されます。
不易(変わらないモノ)と流行(変わるモノ)を組み合わせた不易流行という言葉には、現在もさまざまな解釈がなされています。しかし、それらを総合し、シャッフルし直すと、このように解釈することもできそうです。
つまり「絶えず新しいもの(流行)を求めて変化することを恐れない姿勢こそが、永遠に廃れないスタンダード(不易)を生み出す」というような具合に。
そして、そのように考えると、これは常に「エビデンスを伴った最新の歯科医療技術や情報・知識」(流行)を取り入れながら行う、継続的かつ能動的なメンテナンスこそが、年齢を超えて市民の健全な口腔(不易)を実現するという「予防歯科の基本理念」にも、どこかしら似てきます。
そう、思いませんか?(次回『横浜外国人居留地・散歩』編㊤に続く)
筆者プロフィール
未知草ニハチロー(股旅散歩家)
日本各地を股にかけて散歩しながら、雑誌などにまちづくりのリポートをしている。
裸の大将・山下清のように足の裏がブ厚くなるほど、各地を歩きまわる(散歩する)ことが目標。